夏目漱石は数々の病を経験しました。よく知られているところでは神経衰弱と胃潰瘍です。死因は胃潰瘍です。
学生時代に肺結核の疑いがあると診断され、転地療養もしました。夏目家の長男と次男は結核で亡くなったのでおそらくは伝染したのでしょう。友人の菅虎雄の勧めで松山中学の英語教師に赴任したのは転地療養のつもりがあったようです。現在のような正確な診断ができた時代ではないのですが、その後、結核の再発はなかったようです。
トラホームはこの時代には多い眼の病気です。この時代、日本から米国に移民するとき、入国検査で「トラホームで入国拒否」は多かったといわれています。生活用水、とくに井戸水が原因だと思われます。トラコーマは視力低下があるので、漱石はそれで困ったようです。
1901年、ロンドン留学中に神経衰弱を発症しました。過度のストレス、孤独、貧困による栄養不足、西洋文化との違和感などが原因だったと思われます。翌年、友人の勧めで自転車の稽古で気分転換をはかりました。スコットランドまで自転車で行きました。このときはそれで神経衰弱は一時的に改善されたようでした。文部省への報告書を白紙で出したことが「夏目は発狂した」という噂になりました。そのことが早い帰国になったようです。漱石の神経衰弱は帰国後も定期的に発症し、随分家族をも悩ませたのです。「帰国後二年ほどは大変だった」と鏡子夫人は述べています。このことは先に述べました。
1905年(明38)1月、『吾輩は猫である』を俳句雑誌「ホトトギス」に発表しました。そのきっかけは「神経衰弱の気分転換になるかもしれない」という髙濵虚子の勧めでした。文豪漱石が誕生したのは神経衰弱と髙濵虚子のおかげです。
1909年(明42)9月、友人満鉄総裁中村是公の勧めで満州、朝鮮を旅行しました。その出発前の8月24日の友人中島氏に宛てた手紙に「小生はご承知の通り年来の胃弱なれど、今回の如く急性カタルを起こしたのはしめてにて一時は嘔吐烈敷自分ながら生きているのが嫌になり候」とあります。
漱石は学生時代から胃弱であったようですが、深刻な胃痛はこれ以降ではないでしょうか。
漱石は酒を飲めなかったようですがヘビースモーカーで、甘いものが好きでした。ことのほか羊羹とアイスクリームが好きだったようです。『草枕』にも青磁の皿に盛られた緑の羊羹の話が出てきます。これらは胃病にはよくありません。勤めから帰って、遅い時には夜十二時まで原稿を書いていたと、鏡子夫人は述べています。これも病にはよくありません。
1910年(明治43)6月、胃病治療のため漱石は内幸町の長与病院に入院しました。一カ月程で退院し、8月転地のための修善寺温泉で滞在中、大吐血、危篤に陥りました。10月に回復後、再び長与病院に入院しました。これを「修善寺の大患」と呼んでいます。これ以降、漱石の小説は心の内面的な表現が深くなった」とされています。