水を飲めば水の味がする
千葉県在住 中臺 眞治
私には、とても悩み苦しんでいた時代があります。
私は26才の時、天理教の教会長に就任しました。当時の東京には、ホームレスの方が大勢いて、私の実家である報徳分教会ではそうした方々を受け入れていました。しかし、その中には自立が困難な方や他の住み込みさんと仲良く過ごせない方もいて、私の教会ではそのような方々をお預かりしていました。
初めに四名の方を受け入れたのですが、トラブルは絶えませんでした。通りすがりに人の顔につばを吐きかける人、わざと足をかけて転ばせる人、俺は怒っているんだ!と言わんばかりに当たり散らしている人、などなど。「そういうことはしちゃいけないよ」と言っても、まったく会話になりません。結局、四人のうち三人を看取り、最後の一人になるまでの14年間、その住み込みさん同士は心を通わせることもなく、会話すらほとんどありませんでした。
当時の私の役割は、そうした方々の食事を作り、身の回りの世話や介護をし、機嫌をとることでしたが、感謝をされることはありませんでしたし、それらを毎日一人で行わなければなりませんでした。
孤独や貧困、介護など色々なことが重なる中で、私は自分の人生に絶望し、夜眠る時に「どうか明日、目が覚めませんように」と祈る日々もありました。心の中には生まれてきたことを後悔する気持ちと、生きていて良かったと思いたい気持ちとがあり、その両方の間で揺れていました。
その後、色々なことがあり、苦しい時期を抜け出すことが出来たのですが、当時を振り返ってみると、多くの方にたすけられていたのだなと感じています。
ある晩、おぢばの詰所でおたすけ熱心な先生から、「眞治君どうだい、元気にやってるかい?」と声をかけられました。私が答えに詰まり、うつむいていると、「そうだろ、真っ暗闇だろ。でもね、真っ暗闇がいいんだよ。立派な大木には同じだけの根っこがある。その根っこというものは暗闇の中に生えるから意味があるんだよ。根っこが光を浴びたら意味がないだろう?」と励まして下さいました。
今の苦しみにも何かしらの意味がある。そう思うことで、私は希望を持ち続けることができました。
また当時、私は辛い気持ちを母によくこぼしていました。母はいつも共感しながら話を聴いてくれて、時には一緒に泣いてくれることもありました。そうしたことを繰り返す中で、段々と母を安心させたいと思う気持ちが芽生え、その気持ちが私自身の支えになっていきました。
自分の人生なんてどうでもいい!と投げ出したくなる時、悲しませたくない誰かがいることが、支えになるのだということを学びました。
こうした時期を乗り越える転機になった出来事があります。それは10年ほど前のおぢばがえりでした。
その日、私は一人で神殿に行き、おつとめをしました。そして、神様に向かって心の中で色々なことを問いかけていました。苦しむことの意味、ダメな自分、この先どうしていったらいいのか、などなど。神様から何かしらの返事があるわけではありませんが、礼拝の目標であるかんろだいを見つめながらボーッと過ごしていました。
するとその直後、不思議な感覚に包まれたのです。言葉にするのが難しいのですが、それまでは、どうしたらご守護を頂けるのか、神様の親心はどこにあるのかと、そんな風に考えていたのが、突然、私たちはそもそも神様の親心に包まれているんだ、ご守護を頂いているんだ、親心いっぱいの中で生かされているんだという感覚がおとずれたのです。そして、心が満たされた気持ちになり、涙があふれてきました。
「ダメな自分でもいいじゃないか。それでも神様は親心いっぱいで生かして下さっているじゃないか。ありがたい。これで十分」そう思えた瞬間でした。
それまでの私は、人と比べながら「自分はダメだ、不幸だ」と感じていました。しかしこの出来事のおかげで、誰と比べる必要もない、自分にも神様から与えられている幸福があるのだということを知りました。
天理教の教祖・中山みき様は、今日食べるものもないという厳しい状況の中で、「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とお言葉を下さいました。
このお言葉は、単なるやせ我慢ではありません。私たちは神様の親心に包まれ、天の与えを頂きながら生かされて生きているお互いであり、そこに心を向けることで、誰と比べる必要もない幸福を味わうことができる。そのことを端的に教えて下さっているのではないでしょうか。
その後、段々と毎日を喜べるようになった頃、妻と出会い結婚をしました。結婚してからは子供も授かり楽しく過ごしていたのですが、時々「なぜあんなに苦しい道を選ばなければならなかったのか」という思いが押し寄せ、傷のようなものが疼くことがありました。20代、30代という若い時代を楽しく過ごせなかった悔しさが込み上げてくるのです。
しかし、ある活動と出会い、その傷は癒えていくことになりました。それは「SNSたすけ」という、天理教青年会で教えて頂いた活動です。
そこで出会う方は、自分の人生に絶望し、生きる気力を失ってしまっている方々であり、苦しんでいた頃の自分と重なるのです。ここ数年は、毎年10名ほどを教会で受け入れています。
時々「大変じゃないの?」と心配の言葉をかけて下さる方もいますが、私自身は大変だと思ったことはほとんどなく、むしろ癒されている部分が大きいと感じています。その癒しに付き合わされる妻は大変だと思いますが、この場を借りて感謝致します。ありがとう。
親心
『稿本天理教教祖伝』第八章「親心」の冒頭は、以下のように始まります。
このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり (四 62)
いちれつのこともがかハいそれゆへに いろ/\心つくしきるなり (四 63)
人間は、親神によって創造され、その守護によって暮らしている。故に、親神と人間とは真の親子であり、この世の人間は一列兄弟である。この理により、親神の心は、昔も今も子供可愛い一条である。
(中略)
にんけんもこ共かわいであろをがな それをふもをてしやんしてくれ (一四 34)
にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる (一四 35)
をやの一語によって、親神と教祖の理は一つであり、親神の心こそ教祖の心、教祖の心こそ親神の心であることを教えられた。
そもそも、親とは、子供から仰ぎ見た時の呼名であり、子供無くして親とは言い得ない。親神の心とは、恰も人間の親が自分の子供に懐く親心と相通じる心で、一列人間に対する、限り無く広く大きく、明るく暖かい、たすけ一条の心である。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、教祖の子供可愛い一条の親心が感じられる数多くの逸話が収められています。
明治十二年、当時十六歳の抽冬鶴松さんは、胃の患いから危篤の容態となり、医者にも匙を投げられてしまいました。
この時、知人からの勧めで入信を決意した鶴松さんは、両親に付き添われ、戸板に乗せられて、大阪から十二里の山坂を超えて初めておぢば帰りをさせて頂きました。
翌朝、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「かわいそうに」と仰せになり、ご自身が召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松さんの頭から着せられました。
この時、鶴松さんは教祖の肌着の温みを感じると同時に、夜の明けたような心地がして、さしもの難病も薄紙をはぐように快方に向かったのです。
鶴松さんは、その後もその時のことを思い出しては、「今も尚、その温みが忘れられない」と、一生口癖のように言っていた、と伝えられています。
思えば、教祖ご在世当時の先人の信仰者たちは、教祖の親心に直接ふれて信仰に入り、その教祖の親心に少しでも近づかせて頂こうと力を尽くす中に、多くの人が導かれ、この道が広まっていったのです。今もなおご存命でお働きくださる教祖の親心は永遠であり、常に私たちを成人へと導いてくださっているのです。
(終)