神奈川県足柄上郡山北町(あしがらかみぐんやまきたまち)。丹沢の山に囲まれた静かな町です。JR御殿場線の山北駅。その向こうにそびえる山が河村城の跡です。河村城は標高225mの浅間山(せんげんやま)と呼ばれる東西に長い形をした山の上に築かれており、南に酒匂川(さかわがわ)、北は皆瀬川(みなせがわ)が流れています。皆瀬川は城の西で酒匂川に合流していますが、この流れは江戸時代中期に変えられたもの。城があった当時はJR御殿場線のあたりを流れていました。山北駅は昔の川の中にあるということですね。河村城は南北を川で囲まれた要害の地にありました。
城のはじまりは南北朝時代(平安時代とも)。この地を支配していた河村氏が山の南麓に館を構えました。県道74号線、「岸」という交差点を西に入ったあたりが館の跡だと言われています。遺構は見られませんが、館の詰の城として、山頂に砦のような施設が築かれました。戦国時代になると河村城は小田原を本拠とする北条氏の城となります。山の上の砦は拡張され、現在みられる姿になったよう。本城曲輪の周りの堀には畝(堀障子)がもうけられ、関東の地質を生かした北条流の城が出現します。なぜ北条氏は河村城を大改修したのでしょうか。それはこの城が戦略上とても重要な地点にあったからです。戦国時代、関東を5代にわたって支配した北条氏。その領国支配の特徴として挙げられるのが支城網(体制)です。本拠である小田原城を中心に、韮山城・八王子城・玉縄城などを軍団司令部として配置。国境や街道沿いには戦闘用・兵站基地として足柄城や山中城を置く。このような多くの城をつなげた支城網の構築により、適切な武将配置や領国管理が行われていたのです。河村城は小田原城から北に約10数キロととても近い場所にあり、甲斐・駿河に通じる街道が通っています。武田氏や今川氏の領国に接し、ひとたび争いが起これば戦場となってもおかしくはありません。北条の領国の心臓部である足柄平野北端の根城として、重要視されていたのです。