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登り窯の本焼き見学 & 長々とロゴス転がす回想文

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▶▶▶▶序文 一口に登り窯といっても様々 更に本焼きともなれば窯の状態、窯詰め具合、薪の種類や乾燥度、当日の天気など一回として同じものがなく、よって焼き方も絶対正解がない 親方の元での習い時代、「ここにいる期間は他所の窯焼を見ないように。」と言われていた 蹴轆轤の習いに来る人に対しのびのびと体感できる環境を開放し、いわゆる上下関係とは無縁な方でいらしたので混乱を避ける為の伝達だったように思う 「結論は何だっていいんだが…せっかちに言葉で決めてしまわないように…もっと実践的、現実的に…」「自信や確信よりももっと楽観的に始められること…」「好きにやればいいんだ。」と、しながら「土揉みは音でわかる。」「手板一枚、薪一把、レンガ一段を見ればその人がわかるんだよ。」とも仰っていた 映像は、大口(薪だけ入れる場所)に熾(おき)を溜めながら温めつつ、窯全体を焼く為に芯を通してゆく行程 今回久しぶりに経験豊かな方々から直接色々な話を伺え、大方の流れを俯瞰出来て嬉しかった この後、炎は上へ上へと順に各部屋を登りますが、本動画は一番手前の大口上げまで (大きな炎は4:30から) 。 。 。 。 少しづつ 薪が焚べられ 徐々に火が 大きくなる 以前も記したけど 喩えるならそれは クラッシック曲 ラヴェルの「ボレロ」に似てる ピアニッシモから 折重なり 折重なり 炎が育ちゆく 爆ぜる薪の側 立ち会う人と人 窯の火を見る 火を映す瞳はそれぞれ 映る炎も様々 そこにある体験もそれぞれ ごくたまにキャンプファイヤー効果なのか、ふと、居心地よくなる瞬間がある 寛ぎながらその場を味わい黙していたり、いくつかの言葉を交わし合う揺らぎ 馴染み深い雰囲気に身を浸し、この土地での苦めの記憶が少し変化したような稀有な一日だった 想い出は生きものだからとても助かる 。 。 。 ▶▶▶本文 ご周知のように登り窯は焼き物を焼く為の道具です。 しかしながら実践においてそれだけでは収まりきらないものを感じてきたので、個人的嗜好を並べながら今の気分(イメージの現在地)をスケッチしてみました。 西田幾多郎さんを中心に先達者の方々の引用等以外は抽象まみれな戯れ散文。 主な内容は、時や直観について。 結論は、登り窯はピュシスの楽器かも、です。 「なんのこっちゃ!」かもですが、よろしかったらどうぞ。。 ✳✳✳✳✳✳ 灯された窯は ひとつの 生命体のよう 「窯の声」を聴く 内耳で観て 取り込んで 密度を高め 掻き明け放つ 内時で焼かれていく ✳✳✳✳✳ とある日、唐突にサンスクリット語で時間てなんて言うんだろ?と疑問が湧いたので、にわかネット調べをしてみた いくつか表現があるなかで、「時」は「カーラ」であるとも書いてあった カーラとは「しに神」の意味もあり… (いきなりのインパクト申し訳ありません。オブラートせずにそのまま使用しました。) そこでついでに目に留まったのが、破壊と維持と再生の神様であり、自由の化身でもあるインドのシヴァ神の別名はカーラカーラだという記述 つまり、「しに神のしに神」 シヴァ神は「しに神さん」をあやめる… これを知った時「福岡伸一、西田哲学を読む : 生命を巡る思索の旅(明石書店) 」に書かれていた、自らの秩序(増大するエントロピー)を先行して壊しながら進む負のエントロピーの事を思い出した 生命には、細胞膜の再構築のために崩壊する構成物質をあえて先回りする働きがあり、その合成と分解の循環から汲み出されて時間というものが生まれてきている… その仕組みを生物学者の福岡伸一さんは《動的平衡》と名付け、内なる流れそのものをピュシスと表現されていた (physis/ギリシャ語の自然、本性/ありのままの矛盾を内包するものとしての自然/physics 物理学やphysiology生理学の語源) 一方、言語がロゴス/logos (そのものの外にいるから名を付けられる) 「生命が時間を生み出しているんじゃないか」と仰る福岡さんの《動的平衡》と、100年以上前の西田哲学の『絶対矛盾的自己同一』は酷似しているのだそう ✳✳✳✳ 明治生まれの西田幾多郎さん曰く 『世界は自己自身の実在性を有つのである。(世界はエントロピー的である)。之に反し世界が全体的一の自己肯定的には自己自身を形成する、自己の内に自己表現的要素を含むと考えられる時、世界は生命の世界となる。』 『私は真の自覚は自分の中に於て自分を知るといふことであると思ふ。単に主と客と一と云へば、所謂反省以前の直観といふ如きものとも考へ得るであらう、自覚の意識の成立するには「自分に於て」といふことが附加せられねばならぬ。知る我と、知られる我と、我が我を知る場所とが一つであることが自覚である。』 『全体的一と個物的多との、主体と環境との、内と外との矛盾的自己同一に、尾を噛む蛇の如くにして、生命というものがあるのである。』 、 ぉ、 ただならぬ気迫と緻密な煌めきを感じるものの、未知の鉱物のようで、その正体は簡単にはわからない (ご本のなかには一部、福音のような比較的分かり易い訳文があります。) でも、この類の話、令和な普段からも突き詰めれば「何をもってそれとするか」の語義初期設定や立ち位置が各々微妙に異なる 心意を汲み出すには相当を要するけれど、好きなことに関しては苦にならないし、その分沁み込み度数は深くなりえる ↓小休止 少し脱線 「福岡伸一、西田哲学を読む」は西田研究の第一人者池田喜昭さんとの対談形式になっていて、途中お互いの理解が噛み合わなくなる箇所(樹木の年輪と環境の包み包まれる関係のところ)があるのですが、どうにか糸口を見出そうと双方根気強く話されているのがとても印象的だった。 対談を終え、福岡さんによる理論が続き、その後の池田さんのエピローグ終盤、ひとつの語り口(monologue)は視野狭窄(トンネルヴィジョン)になりやすいが対話=ダイアローグ(dialog)は2分割のロゴス(dia-logos)なのだとあり、他者の存在をlogosの片割れだとするその眼差しに感服した。 違って当然だし、対話ってそこから始まるんだろうけど、日常では率直に「えっ?それって、どーーゆーこと?」って即、疑問符を投げられるのは普段から仲がよかったり気持ちを持てる相手じゃないとその価値を見出しにくい。 自分は思い込みザワールドの住人であるので、御二方の真摯な言葉のやり取りが強く心に残ったのだった。 (勿論内容然り+反ダーウィニズムの理論生物学者ユクスキュルさんのブナ林での話のくだりなどもトキメく) ✳✳✳ ロゴスの思考分別(外)ではない、ピュシスの働きである先回り(内)を、西田哲学では『行為的直観』と表現されている 親方の成井恒雄さんは何をもって仕事に向かうのかの質問に対し「それは体験からのチョッカンなんだが、、」と答えていらっしゃる 民藝理論の柳宗悦さんや同世代の青山二郎さん、小林秀雄さん、岡潔さんらも各々の感性で直観を語られているのが興味深い 青山さん曰く「見える眼が見ているものは、物でも美でもない。物そのものの姿。物の姿とは、眼に映じた物の、それなくしては見えない人だけに見える物の形、つまり、形ある物から、見える眼のみが取りとめた形」  ぅ、 『物を内側から観る』ピュシスを外から見るロゴスのみで捉えようとすると少なからず着地しきれないような切なさが滲じみ浮かぶ それがまた文章の面白さや魅力でもあるよなぁ 先日、お笑い芸人で作家の又吉直樹さんが歌曲のメロディとリリックの補完性について話されていて、だから音楽ってすんごく説得力があるのかぁ、と至極合点したのだった (↓後程、マイセレクト3曲添付あり) ✳✳ 『考究の出立点』という西田さんの表現は、存在そもそもの元々に立ち還り考えてみるってことなのかな 風呂敷広げ過ぎ感ありながらも日本神話にも目を向けてみると、創造の源(水面と)、海(生み)をまぜまぜしている有名な場面がある 〈国土は、まだ稚く、水に浮いた油のように海面を漂っていた 神々から国土をしっかりと作り固めよとの命を受けた伊邪那岐尊と伊邪那美尊が、天の沼矛を海原に下ろして「こをろこをろ」とかき回し(海を溶いた=溶き海=時生み)、矛を持ち上げた 矛の先から滴り落ちた潮が積もり重なって島となり、おのころ島となる 「おのころ」は「自凝」と書く イザナミとイザナギの 二神はおのころ島(淡路島の南、沼島/ぬしま)に降り立って結婚し、日本列島の島々を生みました〉 この話は色んなver.に置き換えられそう 例えばこれをお笑いに当てはめて超訳すると「コンビ芸人イザイザ(相方同士/ボケツッコミ)が、マイク(沼矛/道具)を前にして笑い(渦/宇図)を作ったら、新たな時(地/自)が生まれましたとさ。」と、読めなくもない   ↑独断と偏見 強 こをろこをろ こをろこをろ カーラカーラ カーラカーラ M−1に出てくるかな 夫婦漫才イザイザ ↑妄想 興 ✳ 結論 あまねく生命のピュシスが限定的に凝縮されている演奏(発露/表現/エンタメ/創作)の為、多種多様な楽器(ツール/装置)が世界には存在している そのひとつが登り窯   とある日、散歩中その仮説を思いついたら視界がスコーンとクリアになり、目の前の公園の緑と冬の青空の透明度が増し増した よく焼く(鳴る)ことは主体である窯をよりよく活かすこと そこでは手段と目的が入れ換わり同時に成り立つ 。 。 ▶▶後書き 「はぁ? 窯が楽器? 正気すか?」 ですよねー 間違いでいい トンネルヴィジョンなりの抽象を手仕事の具象(実践)に返し再び確かめながら修正していけばいい 異なる視点は風穴として時折新鮮で美味しい空気を連れてくる ひゅるるるるるるー https://youtu.be/FtSrC61eVSg?feature=shared そして、(しつこい)この怪想文やっと書き終わりかけた日の午後、台所のラジオからこの曲が流れてきた https://youtu.be/H6kWG90EvCA?si=qENF6GHsGGg-9Kwi 授業をさぼって 寝転んでたのさ屋上で 内ポケットには トランジスタラジオ 彼女教科書広げてる時 ホットなナンバー空に溶けてった こんな気持ちうまく言えたことがない  (清志郎) 、 、、 、、、 、、、、ん? これって、外時間(カーラ/教室の時間割)と内時間(カーラカーラ/屋上の永遠)の事なんじゃん? しかも情景に身に覚えがある… 以前在籍した某窯業訓練校で、まさしく教室をふらり抜け出し鉄パイプの梯子を登って同級生たちとふざけたり昼寝していた(すみません)記憶が蘇った そう(ヤンチャ)でなくとも、実はずっと一緒だったんだね、カーラカーラさん 驚 。 それにしても、何故こんなにも思い出が湧いて出てくるのか… 今回の本焼きに指導所研修生の方々が手伝いで楽しげに参加されていたのをお見かけし、ヤンチャ時代を懐かしみほっこりしたのもあるのかな… 卒業シーズンだし、まぁ、たまにはいっか… ▶追記 西田さん座右の銘 『人は人 吾はわれなり とにかくに 吾行く道を吾は行なり。』 https://youtu.be/R5396gKwIPg?si=MO1wSaszSlzZ3IA6 (LIBRO) 微かなものだけど、それでも少しづつ認識と融解が進むのは三寒四温みたいでよき 空間が発酵してる #登り窯#ボレロ#ピュシスとロゴス

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