【イジメ回避のためにレズビアンに】ケンカ、しごき、嫉妬。なぜ全日本女子プロレスは「最強」で「最狂」だったのか? #プロレス #全女 #クラッシュギャルズ #極悪女王 #ダンプ松本
経営陣との対立から「日本女子プロレス協会」を退社した松永高司が、共に退団した選手たちと全女を設立したのは、1968年6月のこと。
1972年に日本女子プロレス協会が崩壊してからは日本唯一の女子プロレス団体となり、マッハ文朱や、ジャッキー佐藤とマキ上田の「ビューティ・ペア」など、一般的にも有名な選手を輩出していく。
全女を中心に、女子プロレスの団体対抗戦が盛り上がった1990 年代、ファンの間では「全女最強伝説」が常識となっていた。
確かに全女の選手は本当に強かったが、それには明確な歴史的背景がある。
今と違って、昭和の時代に女性が活躍できるプロスポーツは女子プロレスぐらいしかなかった。だから、日本中のスポーツエリートたちが全女に集まる。そこからオーディションでふるいにかけられた逸材だけが入門を許される。
その結果、とんでもないポテンシャルを秘めた新人が毎年全女に入団してくるというシステムになっていたのである。
さらに、道場での練習や合宿での特訓に加えて年間300試合という実戦を重ねていく。その経験値から他団体とは比べものにならない体力と技術が備わる環境だった。
そして最強伝説のひとつに「全女の新人の試合はシュートだった」というエピソードがある。
確かに真実ではあるが、「シュート」とはいっても一般的な意味合いとはやや違うもので、いわゆるアマレス流の「押さえ込み」で強引に相手の肩をつけ、3カウントを奪ったほうが勝ちというルールだった。
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