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萩日吉神社は、比企郡ときがわ町西平にある神社。
萩日吉神社は、(蘇我馬子の父)蘇我稲目により欽明天皇6年(544)創建されたと伝えられ、萩明神と称した。
蘇我稲目は蘇我高麗(こま)の子で、蘇我馬子ら3男3女の父。
高麗は母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれた。
高麗といえばときがわ町からすぐ近くの日高の高麗神社を思い浮かべる。
高麗神社の祭神は高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始。
高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣した。
『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が記録されている。
668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはなく、その後、大和朝廷に官人として仕えた。
若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第七に記述)。
つまり、蘇我稲目の父・高麗の母方の出自が高麗郡であった可能性も考えられる。
蘇我稲目は欽明天皇元年(540年)、欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を天皇の妃とした。堅塩媛は7男6女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(かしきやひめ・推古天皇)が即位している。
小姉君は4男1女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。
ちなみに蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇は日本史上で臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。
稲目は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。
稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」(「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也」)と答えた。
これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」と反対、これが蘇我氏の物部氏の戦いの始まりとなる。
仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれた。
その後、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)の坂本から日吉大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮に改称した。
奥州藤原泰衡追討に際し源頼朝が慈光寺へ戦勝祈願すると同時に、正妻の北条政子が萩日吉山王宮へ年貢免除地を寄進した。
この事からも、慈光寺が萩日吉神社の神宮寺であった事が窺われる。
この慈光寺の奥之院があった地こそ堂平山の山頂である。
秩父からときがわ町辺りにかけてのこの一帯は中央構造帯の走る場所であり、中央構造帯に沿って山脈が隆起し東西に走っている。
中央構造帯とはつまりプレートとプレートの狭間である。
この狭間から地球誕生時、宇宙創造時の大いなる力が吹き出しており、そこは現代人により「パワースポット」「レイライン」などと称されているが、科学的知識の無い古代日本人は大地からたぎる大いなる力を神観念として感じとっていた。
そして、そんな霊地を重要地と認識し、古代権力者らはこぞってその地へ寺社建立し、その唯物的感覚は現代人のそれと同化していく事になる。
本来、神とは形無く目に見えぬが、しかし宇宙をも凌駕する偉大なる力である事を我々は決して忘れてはならぬ。
明治元年(1868)11月、神仏分離令の布告により、再び萩日吉神社と名称を改め、村社に列格、明治40年には地内の4社を合祀、昭和19年郷社に昇格した。
当社祭礼で奉納される流鏑馬神事(県指定無形民俗文化財)は、3年に1度、1月第3日曜日に執行。
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