【低迷する猪木新日本を救った】低迷する新日本のドーム興行を成功させ業績をアップ。坂口社長が持っていた数々のツキとは?不思議なもので、ツキを持っている人間が上に立つと、会社が良くなっていく。 #プロレス
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坂口が社長に就任したのは1989年6月15日。その前年の1988年頃から台頭していたUWFが社会的なムーブメントとなっていて、新日本は興行の落ち込みが激しくなってきていた。
この状況で大黒柱の猪木がリングからいなくなってしまうことは、興行的には大打撃である。特に地方は猪木が目当てのプロモーターが多く、猪木の政界進出はまさに死活問題だった。
坂口は最初から苦しい闘いを強いられたが、社長就任の2カ月前、1989年4月24日に東京ドーム初進出を果たしたことが大きな転機となった。
のちに坂口は「ドーム興行の立役者」といわれるようになるが、この東京ドーム初進出は猪木の指令で行われたものだった。
1988年3月に開業したばかりの東京ドームで大会を開くとは、いかにも大きなことを好む猪木らしい発想だ。しかし当時の新日本は、両国国技館も満員にできないほどの動員数だった。社員たちはもちろん、坂口や幹部たちも否定的だった。
「後楽園でも入らないのに、ドームなんてできるわけがないですよ」
みなが猪木に言うと、こう言い返された。
「やりもしないで、できるわけがないなんて言えねえだろ。とにかくやってみろ!」
不思議なもので、猪木にこう言われた社員は奮い立った。猪木の神通力はさすがに絶大である。
こうして新日本初であり、プロレス界初の東京ドーム興行「格闘衛星★闘強導夢」は開催された。そのネーミング通り、世界をまたぐ格闘のリングを謳い、ソ連からサルマン・ハシミコフ、ショータ・チョチョシビリらレッドブル軍団を参戦させたビッグイベントとなった。
#プロレス #猪木 #長州力