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北村銀太郎が選んだ昭和の大物落語家 【落語】

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0:49「三軒長屋」 27:53「お直し」 1:04:38「明烏」 北村 銀太郎(きたむら ぎんたろう 1890年(明治23年)12月12日 - 1983年(昭和58年)10月3日)は 、日本の興行主・建築業者。建築業を経て寄席経営にかかわる。 特に新宿末廣亭の席亭を37年にわたって務めて「大旦那」と尊称され 噺家とは違った立場で落語界に重きをなした 「三軒長屋」 三軒長屋の真ん中に住む質屋の伊勢屋勘右衛門、通称”やかん頭のイセカンのお妾さん。両隣は鳶頭の政五郎の家と楠運平橘正友という剣術の先生の道場兼住いだ。鳶頭の家にはしょっちゅう気の荒い若い連中が出入りし喧嘩や木遣りの稽古、剣術道場では朝から夜までやっとうの稽古でやかましい。原話は中国の明代に書かれた笑話本『笑府』第六巻・殊稟部の「好静」 三代目 三遊亭 金馬 古典を中心に持ちネタの数が非常に多く、爆笑落語から人情噺まで幅も広かった。登場人物の描き別けがきわめて明瞭で聴き取りやすく、よく練られた構成も無駄なく確かで「楷書で書いたような落語」と評される。老若男女、誰にでもわかりやすく、しかも過剰な演出はしない。ラジオの寄席番組に度々出演し、その芸風から親しまれた。 「お直し」 近頃、お茶をひくことが多くなった吉原の花魁。見世の主人はいい顔をせず朋輩からも馬鹿にされ、くやしくて涙を拭いていると客を引いている若い衆が「めそめそしていれば客はどんどん逃げちまうよ。笑って明るくしていればそのうちにまたいいことがあるよ」なんて、慰めの言葉をかけてくれたものだから・・・ 五代目 古今亭 志ん生 1890年6月5日東京生まれ 本人曰く4代目橘家圓喬の弟子 6代目圓生は志ん生について「芸の幅が五十をすぎて、パーッと開けちゃった」「人間はズボラだったが、芸にウソはなかった」「志ん生の芸は傷だらけ(中略)その芸も完璧なものじゃなかったわけで、人間描写もいい加減なところがあった」「小さく固まらなかったから、いつかその芸がなんともいえない独特の芸風にふくらんでしまった」口演の出来不出来が激しかったが、「そこがいかにも志ん生らしいところで」「志ん生さんにはフラがありましたが、あれも型があっての上での自在な間なんです。型のないものは芸じゃありません。」と評している。「完成した5代目志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えるが、実際は売れない時代が長く、芸について苦労して非常に考えた上であの芸風を苦心して作り上げたことが窺える。 「明烏」 日向屋の若旦那である時次郎は部屋にこもって難しい本ばかり読んでいるような頭の固い若者で、悪所遊びとは一切無縁である。あまりの堅物ぶりに閉口した父親は、「遊びも知らぬ世間知らずでは困る」と、遊び人の源兵衛と多助に頼み、時次郎を吉原に連れて行ってもらおうとするが・・・新内節の「明烏夢泡雪」を下敷きにしだ噺で戦前、内容が卑俗的で低級であるとして警視庁から上演禁止にされたこともある。 八代目桂文楽 8代目文楽は「黒門町くろもんちょう」「黒門町の師匠」「黒門町の文楽」などと呼ばれた。演じた演目の種類は多くはなかったが徹底的に練りこまれているとの定評がある。東京時代の初代桂小南の唯一の弟子であり内弟子として入門し浅草にある初代小南宅に住み込んだ。初代小南は自身が上方の落語家であるため、この新しい弟子に稽古をつけることはなかった。8代目文楽は3代目三遊亭圓馬(当時は7代目朝寝坊むらく)に稽古を付けてもらうことになる。3代目圓馬は、ネタ数の多さで有名で、その中には東京・大阪の演目が幅広く含まれる。食べ方一つで羊羹の銘柄を描き分け、また豆を食べるのも枝豆、そら豆、甘納豆それぞれの違いをはっきりと表現し、8代目文楽を驚かせた。 トークなしで純粋に落語だけを楽しみたい方はこちらでどうぞ 落語の蔵:https://www.youtube.com/@Repli455/videos #落語 #北村銀太郎 #金馬 #志ん生 #文楽 #三軒長屋 #お直し #明烏

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