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志ん朝 談志 三木助 火事と喧嘩は江戸の華って噺【落語】

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0:49火事息子 36:17め組の喧嘩 1:41:35さんま火事 「火事息子」 江戸時代の消防組織には、町火消と若年寄直轄の火消屋敷があった。 神田の質屋伊勢屋の一人息子の藤三郎は子どもの頃から火事が好きでしょうがない。ついには火消しになりたくて町内の鳶頭のところへ頼みに行くが断られ他所へ行っても鳶頭から回状がまわっていてだめ仕方なく火消屋敷の火事人足、臥煙になる。体中に刺青を入れ家からは勘当されてしまうが家の近くで火事が起き・・・ 三代目 古今亭 志ん朝 七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。 「古今亭志ん朝」を名乗った他の2人は、いずれも名乗った期間が極めて短い。そのため「古今亭志ん朝」と記した場合、真打昇進から没するまで40年以上にわたって「志ん朝」を名乗り続けた三代目を指すことがほとんどである 「め組の喧嘩」 文化二年二月に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件を題材に講談や芝居が上演された。「め組の喧嘩」は規模としては小さいが庶民の注目を集めた理由は、事後処理が相撲興行を取り仕切る寺社奉行と、町方の事件を裁く町奉行、後には農民の訴訟を取り扱う勘定奉行も乗り出して、評定所の基本的な構成員である三奉行の協議によって進められるという、当時とても珍しい形をとったためだった。発端が火消し側にあったことと、非常時以外での使用を禁じられていた火の見櫓の半鐘を私闘のために使用し事態を拡大させた事が重く見られたため裁きは火消し側に厳しいものとなった。辰五郎は百叩きの上江戸追放、長次郎と早鐘を鳴らした長松が江戸追放。その他の鳶は比較的軽い罰で済んだ。力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、他にお咎めはなし。騒動の後中断していた春場所は4月になって千秋楽を打ち上げた。使用された半鐘は遠島扱いになり明治時代になってから芝大神宮に戻されている 七代目 立川 談志 古典落語に広く通じ現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談、漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝、五代目春風亭柳朝と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。自ら落語立川流を主宰し「家元」を名乗る 「さんま火事」 長屋の連中が揃って大家のところへ知恵を借りに来る。けちでみなが吝い屋(しわいや)と呼ぶ油屋のやり方があまりにも汚いので癪にさわってしょうがないと、愚痴を並べ立てると大家さんが晩飯時に長屋十八軒そろってさんまを焼こう。一軒、三匹づつ裏の空き地に七輪並べて焼いて熊さんが”河岸だ!河岸だぁ!”と叫ぶ。河岸を火事と聞き間違えるのは向こうの勝手だ、家中ひっくり返るような騒ぎになったら、みんなで笑ってやろうじゃないか・・・ 三代目桂 三木助 当時まではとりわけ注目もされていなかった円朝作と云われる落語「芝浜」を独自に練り上げ得意にした。以降「芝浜」は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも三代目桂三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」と呼ばれる。賭博にはまっただけに博打にまつわる噺をよくした。ある日仲間の噺家が6代目三遊亭圓生に「へっつい幽霊」の稽古をつけているとき、「あなた!それじゃあ盆の使い方が悪い」と言ってサイコロの振り方を演じた。それはあまりにも真に迫っているので、圓生は感心したが、そこまでやらなくてもいいのにと思ったという。小さんとは同姓で義兄弟の杯を交わしたほどの大親友であった。この縁で最晩年に生まれた長男の名前に小さんの本名と同じ盛夫と名付けた。盛夫は後年小さんに入門し、4代目桂三木助を襲名し孫の康浩は5代目桂三木助を襲名した。 トークなしで純粋に落語だけを楽しみたい方はこちらでどうぞ 落語の蔵:https://www.youtube.com/@Repli455/videos #落語 #火事息子 #め組の喧嘩 #さんま火事 #志ん朝 #談志 #三木助

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