井出国子, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2777651 / CC BY SA 3.0
#天理教の人物
#播磨国の人物
#兵庫県出身の人物
#1863年生
#1947年没
井出 国子(いで くにこ、「井出 クニ」、文久3年(1863年)7月24日 - 昭和22年(1947年)9月6日)は、日本の宗教家。
明治から昭和初期にかけて実在した圧倒的な霊能をもった不世出の神人。
兵庫県三木市高木に朝日神社を創設し、そこを中心に有縁に人を対象に教えを説いた。
天理教の教祖中山みき(寛政10年(1798年)~明治20年(1887年))が亡くなって約20年後の明治41年(1908年)頃に突然神様が降り、その言動と振る舞いは、中山みきをしのばせることが多かったと言われた。
「天理教二代目教祖」、「播州のおやさま」と呼ばれることがあった一方、天理教本部は彼女の帰神を認めていない。
井出家の表札 おやさまのお姿 明治41年(1908年)頃:井出国子に親神が降りた時、身体が振動し、自分で止めることが出来なかった。
彼女は最初、自分が悪いことをした罰だと思っていた。
彼女はそれまでに、修行をしたことはない。
目が見えない日、口をきくことが出来ない日、目も見えず、口をきけない日が暫く続いた。
目が見えない時は、一日中座ったままで、口のきけない時に倍働いたので、不自由は感じなかった。
やがて、"人間世界を助けてやってくれ、世界がおさまるようにしてくれ"という声がどこからともなく聞こえ、何もしないでいると、手がくっつき人の手を借りないと日常生活に困るようになり、ひと助けを決心した。
それからは、絶えず全身が振動し、無意識に言葉が出るようになった。
明治42年(1909年)には、助けを求める人が、1日に100人にもなることがあり、人を迎えるために建物を建てた。
暫くして、三木の警察から催眠術を使っていると疑われ、10日間拘留された。
釈放されると助けを求める人が押し寄せ、また、出頭命令が届き、拘留と釈放が繰り返されることが1年1ケ月続いた。
お助けを求めるものの中には、無法者がいて、そのものが裁判所に送られたことをきっかけにして、井出は住み続けることが出来なくなった。
明治43年(1910年)7月13日、城崎温泉にいる井出に裁判所から出頭命令が届き、帰宅した翌14日、予審裁判にかかった。
予審判事からは、「人助けをすることは、何の罪にもならないので、意の向くままにして良い」と言われた。
天理教本部から引きずり出された直後 天理教本部で怪我をした時の鑑定書 明治44年(1911年)の中山みき死後二十五年祭の時、天理教本部に自分の写真と切手を送って無視された井出は、大正5年(1916年)の三十年祭の時には、存命の中山みき(肉体はないが、まだ生きていると考える)の依頼によって天理教本部に参拝し教祖殿の前で人助けを始めようとするが、2名の本部員によって廊下を引きずり出され、怪我をする。
宿屋・福井屋に泊まる。
そこで、中山みきの曾孫にあたる福井勘次郎に出会い、彼の世話をうけるようになる。
兵庫県三木町高木村に住む。
みのこころゑのはなし 大正15年(1926年)4月17日 『みのこころゑのはなし』を発行する。
昭和9年(1934年) 右脚切断の診断を受けた芹沢の岳父・藍川清成のお抱え運転手を治す。
昭和10年(1935年)、脳溢血の後遺症を持つ義父・藍川清成とバセドー氏病の妻・金江を治す。
昭和12年(1937年)、胃癌の芹沢の義母・藍川しむの寿命がないことを告げる。
昭和15年(1940年)、結核性骨髄炎のため、右脚切断の診断を受けた芹沢の弟を治す。
昭和15年(1940年) 井出は、芹沢邸で、外務省顧問・白鳥敏夫に会い、次のように諭したという。
1.アメリカと戦争をしてはいけない。
アメリカの方が国力が上だから敵にしてはいけない、ということではなくて、明治維新で日本が開国した時、アメリカのとった政策のおかげで、ヨーロッパの植民地にならずにすんだ恩があるから、戦争を仕掛けたら負ける。
それが天の理だ。
2.天皇に命を投げ出すつもりで、外交官として勇気を出して、アメリカとの戦争を止めてくれ。
3.社をお祭りするのも良いが、それ以上に人間が神であることを忘れないように。
東京への空襲が始まる戦争末期には、 1.東京に空襲があることはわかりきったことであるが、信者に不安を与えるので言えない。
2.”負けるが勝ち”とも言うように、日本も降参したらいい。
出征する兵士で、無事凱旋を願いに来た者には、征(ゆ)く先々の住民を同胞と思って大事に扱うこと、鉄砲を敵に向けてもねらいを外...