0:49 五人廻し 28:47 お見立て 56:16 居残り佐平次
「五人廻し」
川柳に「人は客我が身は間夫と思う客」「女郎買いふられて帰る果報者」五人の客を取った喜瀬川花魁、杢兵衛大尽の部屋へ入ったきりで他の客の廻し部屋には廻って行かない。こうなると苦情処理係の若い衆は忙しい。初めの客は料理だけ食って出て行ったきり待てど暮らせど姿を見せない三日月女郎、いや今宵は皆既月食か喜瀬川を寝たふりをして待っている男の部屋。若い衆「・・・もうじきお見えになります。しばらくご辛抱を・・・吉原には吉原の法、廓の法がございます・・・」でカチンときた・・・
「お見立て」
吉原遊廓を舞台にした、いわゆる「廓噺」のひとつ。原話は、1808年(文化5年)に出版された笑話本『噺の百千鳥』の一編「手くだの裏」。主な演者に6代目春風亭柳橋、3代目古今亭志ん朝、桂歌丸、古今亭志ん輔らが知られる。終盤に登場する墓碑銘に書かれた戒名は演者によって異なり、一般にはふざけたダジャレが多い。別題に墓違い(はかちがい)。上方落語では手向け茶屋(たむけぢゃや)の題で演じられる。
「居残り佐平次」
貧乏長屋に住む佐平次という男が品川宿の遊郭に行こうと仲間を誘う。当然、貧乏長屋の住人らに遊郭で遊ぶような金はないが、佐平次は気にするなという・・・。
古典落語の演目の一つ。初代春風亭柳枝の作といわれる廓噺の異色作
「居残り」とは、当時の遊郭において代金を支払えなかった場合、代わりの者(一緒に来た者や家族など)が代金を支払うまで、その身柄を拘束したことを言い行灯部屋や布団部屋といった納戸に軟禁されるのが普通だった
三代目 古今亭 志ん朝
七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。
「古今亭志ん朝」を名乗った他の2人は、いずれも名乗った期間が極めて短い。そのため「古今亭志ん朝」と記した場合、真打昇進から没するまで40年以上にわたって「志ん朝」を名乗り続けた三代目を指すことがほとんどである
桂 歌丸
今輔門下から兄弟子4代目桂米丸門下へ移籍したのは芸術協会で勃発した香盤問題や今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発して破門状態となり一時落語からはなれていたが三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで米丸門下として落語界に復帰した。「笑点」の初期メンバーで小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが「あたしは落語を怠けている」と痛感し落語をちゃんとやることにしたという。歌舞伎は仕草や立振舞などを見て落語に活きるからと、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく観に行っていた。「歌丸」の名は師匠の四代目桂米丸が考案した名で歌丸は当代が初代である。
十代目 柳家 小三治
「まくらの小三治」と呼ばれるほど、まくらに力を入れており小三治のまくらを聴きに寄席に足を運ぶ常連もいたという。中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定され東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われ四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽に並び本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し大看板となった落語家のひとりである
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