◆今回の俳句
00:00 【子規と漱石】
卯の花の散るまで鳴くか子規
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥 夏目漱石
02:03 【柿喰へば】
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石
柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺
04:40 【柿喰へば 天気は雨だった?】
仏舎利とこたへて消えよ露の玉
雨の村暮れかけて鵙(もず)の声淋し
むら雨や車をいそぐ紅葉狩
行く秋をしぐれかけたり法隆寺
06:10 【柿と子規】
風呂敷をほどけば柿のころげけり
柿くふも今年ばかりと思ひけり
08:11 【短歌 足たたば】
足たたば不尽の高嶺のいただきを いかづちなして踏み鳴らさましを
足たたば黄河の水をかち渉り華山の蓮の花きらましを
足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
09:22 【絵と観察眼】
牡丹画いて絵具は皿に残りけり
山吹も菜の花も咲く小庭哉
紫の蒲団に坐る春日かな
10:46 エンディング
#正岡子規
#夏目漱石
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◆一部文字起こし
正岡子規の俳句を紹介します
卯の花の 散るまで鳴くか 子規
これは正岡子規が結核を発症した後に詠んだ俳句です
卯の花というのは卯年生まれの子規自身のこと
そしてホトトギスというのは結核のことですね
ホトトギスというのは喉の奥が赤い事から吐血して死に至る病結核の象徴とされていたことがあるらしいです
なので正岡子規は結核が発症してから自分自身に子規 ホトトギスとつけたということになります
今回NHKの歴史秘話ヒストリアという番組の再放送がありまして大変感動したので俳句部分を中心にまとめていきたいと思います
そんな結核が由来の正岡子規。こんなネガティブな(卯の花の)俳句を読んでしまいました
しかし子規には友人が多かったいう風に番組内で紹介されるんですね
中でも同郷で東大の予備門の同窓生の夏目漱石と仲が良かったよということが明らかになるんですが
夏目漱石がそんな子規に送った俳句が残っていました
帰ろふと 泣かずに笑へ 時鳥
これは夏目漱石が人生で初めて詠んだ俳句だとされています
泣かずに笑えよ、子規ということですね
東大予備門の同窓生から実際に東大にいって文学を愛し
時には口論し時には高めあいという仲だった正岡子規と夏目漱石ですが
あの正岡子規の有名な俳句にも夏目漱石が深く関わっていたという事実があるようです
鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺 夏目漱石
さあこれを聞いてあの俳句に似てるじゃんってなりませんか?そうです
柿喰へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
に酷似してるわけですね
こちら夏目漱石の俳句の方が2週間早く詠まれたというものなんです
正岡子規はこの鐘つけばの俳句に対して意趣返しというか返句というかそういった形で詠み返したというものなんですね
そこからあの有名な俳句
柿喰へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
が生まれたということなんです
少し歴史を振り返っていきましょう
結核がひどくなって新聞社に勤めていた正岡子規は松山に療養をしに帰ります
その時に世話になったのが夏目漱石なんですね
本当に仲がいいなぁと思わされたんですけども結核の正岡子規と同棲するという夏目漱石の判断も物凄いですよね
家族でもない人のために色々と行動を起こすわけです
この別荘に住まわせるのもそうですし鰻を奢ってあげたみたいな記述も残っているそうですね
そして松山から帰る道すがらに寄ったのが奈良だったわけです
帰りの電車賃まで夏目漱石が出したという記録が残ってるそうですね
奈良で少し俳句を読みながら観光した正岡子規は漱石ありがとうという気持ちがあったんでしょうか
漱石が詠んだ俳句を引用して
柿喰へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
と詠んだわけです
そしてそれを夏目漱石に一番に伝えたいという想いから発表の場も東京の新聞社ではなくて愛媛の新聞で発表するということになったそうです
夏目漱石との友情というところがものすごく感動しますし
この二人が知り合いなんてっていう風に驚いた話なんですけども
子規も漱石も愛媛出身そして夏井先生もね愛媛出身ですが
愛媛には何か俳句(を含む文学)の力を育む何かがあるんじゃないかなと思わされたエピソードでしたね
さてここで柿喰へばを詠まれた日の天気について考えるコーナーがありました
俳句を見ると読み解けるよということなんですが四つほどその日に詠まれた俳句を紹介していきます
仏舎利と こたへて消えよ 露の玉
露の玉というのは撥水した葉の上の水玉のことですね
次
雨の村 暮れかけて鵙の 声寂し
次
むら雨や 車をいそぐ 紅葉狩
むら雨っていうのはむらっ気のある雨ということで一定に定まらない振り方にムラのある雨ということですね
そして最後
行く秋を しぐれかけたり 法隆寺
法隆寺も時雨れかけてたわけです
つまり雨だったっていう風に言うんですよ
そして当時の気象を記録した書類というのが残っていて確かに雨らしいということが分かるわけです
ここでまたあの俳句に立ち返ってみましょう
柿喰へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
どうでしょうか雨の描写がされてませんしほとんどの人が読後に
「この句が詠まれた時の天気は何でしょう」
と言われたら晴れという人が多いのではないでしょうか
夏目漱石に送る俳句については雨ということを伏せて作りたかった
そんな思いが表れているのではないでしょうか
風呂敷を ほどけば柿の ころげけり
子規は柿が大好きだったそうですね
柿喰へば以外にもおよそ120句の柿の俳句を作ったと言われているそうです
今読んだ俳句は友達から柿が山ほど送られてきてその風呂敷を解いたら転げちゃったよっていうエピソードを俳句に詠んだものだそうです
ここでまた柿喰へばの俳句に戻るんですが
あれが詠まれることになったきっかけとなる出来事があったそうです
子規は当日奈良の東大寺の近くの宿屋に泊まったそうですね
そこで鐘の音が鳴ったので鐘が鳴るなりの鐘っていうのは東大寺の鐘という説もあるそうです
そこで柿を振る舞われるそうなんですね
16~17歳の少女が柿をむいてくれて振る舞ってくれた
その少女がめちゃくちゃ可愛くてずーっと見惚れてしまったっていう日記が残ってるそうなんですよ
で柿も美味しかったと
なのでその東大寺の近くでの経験が法隆寺での俳句に確実に影響しているだろうと言われてるそうなんですね
子規の代名詞といってもいい柿
私が調べたところによると夏目漱石に柿っていうあだ名をつけたこともあるらしいですね
でも大好物だからいいのかな
夏目漱石に「柿!」「柿!」って呼んで そのぐらいの仲だったということです
また病気がひどくなってからはこんな俳句も詠んでいます
柿くふも 今年ばかりと 思いけり
柿を食うのも今年で最後かと思ったよと
柿の俳句を見比べてみても子規の健康状態というのが伝わってくるようですね
子規は東京の子規庵と呼ばれる家で過ごすことになりますが
結核を悪化させて脊椎カリエスという病気になってしまうそうです
一人では歩けず起き上がるのもやっと
六畳一間のその部屋が子規の世界のすべてとなるらしいですね
そんな中子規は世界中のものに興味をもって
ある人からは外国の川の特殊な石をもらったりある人からは地球儀をもらったり
世界に行きたいという思いがあったそうです
そんな子規の短歌を三つご紹介します
足たたば 不尽の高嶺の いただきを いかづちなして 踏み鳴らさましを
足たたば 黄河の水を かち渉り 華山の蓮の 花きらましを
足たたば 北インヂヤの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを
富士にいって雷のように歩きたい中国やインドなど世界中を歩き渡りたい
これを六畳一間の部屋から詠んだわけです
牡丹画いて 絵具は皿に 残りけり
病状の進む子規を心配して複数の友人達が子規を見舞うようになります
痛みを和らげるために中村不折という画家に絵を習うそうですね
そこで観察眼を身につけて身近な風景というのをさらに詠むようになったということです
写生俳句とも称される子規の俳句の技術というのはここでまた花開くことになるわけですね
山吹も 菜の花も咲く 小庭哉
この小庭なんですが子規庵で子規の看病をしたのが妹さんだったそうですね
その妹さんは一つの庭だけでも子規が世界を楽しめるようにと山吹を植えたり菜の花を植えたり色々と庭づくりというのをしてくれたそうです
そして子規が寝たきりの状態になった時には鳥の声が聞こえるようにと鳥かごを庭に置いたり寝ているところからも見えるようにヘチマを植えたりと
かなり工夫されて寝たきりの子規に看病を行ったということですね
そう分かるとこの俳句というのも見方が変わってくるなと思います
紫の 布団に座る 春日かな
中村不折に絵を習った正岡子規ですが
仲間や弟子というのは本当に多くいたそうです
寝たきりの子規を楽しませるために弟子たちが闇鍋を子規庵で行うなんていうシーンもありました
その時の子規の日記に「誰だ誰だ大福を入れたのは」「碧梧桐叫ぶ」って書いてあったんですけど
僕はこれで河東碧梧桐の大ファンになりましたね
そんなふうに子規の見舞いに周りの人々は訪れ続け句会や歌会なんていうのも子規庵で行われたそうです
最後の句会。俳句の勉強会ですね
それが行われたのが1902年9月10日
痛みで絶叫する子規を見て「やめようか」と周りに言われたそうなんですが子規は一言「やれ」と言ったそうです
子規の痛みで絶叫する中行われた句会
子規はこの9日後1902年9月19日に亡くなるそうです
最後まで人々に愛され続けて最後まで俳句を愛し続けた正岡子規
34歳の秋のことでした
卯の花の 散るまで鳴くか 子規
この俳句のように最後の最後まで俳句を愛し続けた子規
柿喰へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
それを支えたのは夏目漱石であり中村不折であり妹であり俳句の弟子たちであり周りの仲間達だったのかもしれません
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