八頭町姫路にある上岡田神社の広場には、安徳天皇の遷幸記念碑があり、その裏山に百基もの五輪塔があります。源平合戦で敗れた平家ですが、安徳天皇は祖母の平時子と入水して身を投げたとする説と、入水せずに逃れたという説があります。
また、安徳天皇の墓所については全国各地にあり、五輪塔群についても各地に点在していることから、どれが本当の話なのか不明です。
その中のひとつとして、安徳天皇と平家一門が逃れて辿り着いたこの場所は、平家伝承の地としては奥深いものがあると感じました。
五輪塔群の場所にあった説明書きを出来る限り読みとってみました。
伝承「安徳天皇御陵について」
寿永四年(1185)-文治元年-三月二十四日、長門国(下関市)壇の浦の最後の源平合戦に敗れた平家は、第八十一代の安徳幼帝(御年八才)以下入水とみせかけて、実は、天皇以下主だった武将らはひそかに戦場を離脱し各地に亡命した。天皇を奉じた二位の尼(平清盛の妻 時子)、女官、武将らは海路因州鳥取の賀露の浦に上陸、折よく通りかかった岡益の光良院住職の宗源和尚のご案内により この姫路の地に遷幸されたという。
この地を私(ヒソカ)な都として仮の皇居を営まれていた天皇は、文治三年(1187)ー文治二年説もあるー八月十三日、村の西方、国府町境の山野(下モ山)で山遊び中、俄かに御発病、侍臣たちの必死の御看護も空しく、遂に峯のやゝ下方で崩御された。今、その地を「崩御ヵ平」(ホウギョカナル)と呼んでいる。
歎き悲しんだ二位の尼以下の侍臣たちは、泣く泣く御遺骸を村に移し、この「平地」の地に葬り天皇の御墓としたといわれる。
以来八百年間、邑人たちはこの地を 安徳天皇御陵の聖地として厚く崇め祀っている。
平成四年十月