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【読書感想回】心理支援における社会正義アプローチ

ミヤガワRADIO 709 4 days ago
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書籍「心理支援における社会正義アプローチ」の紹介になります。 和田香織 杉原保史 井出智博 蔵岡智子(編) 心理支援における社会正義アプローチ:不公正の維持装置とならないために https://www.amazon.co.jp/dp/4414417112 本動画は「心理支援における社会正義アプローチ」を紹介していきたいと思います。最初,このタイトルを見た時にびっくりしました。それは「正義」という言葉にです。 むしろ心理支援の対象となっている人は,世の中の「勤勉に働くべきだ」などの正義に苦しめられている人ではないか?と思ったからです。正直,この本を読むまで「社会正義アプローチ」のことをよくわかっていなかった僕は,そんな社会の正義を押し付けるようなアプローチは,好きじゃないと思いました。 でも,だからこそこの本を手に取りました。なぜ「社会正義」という言葉を使うのか? 本書が社会正義という言葉を敢えて用いることで,何を伝えたいのか? 確かめたくなり,本書を読むことにしました。 まず結論から言えば,僕の想定と真逆でした。むしろ本書は,世の中で「当たり前」とされている正義や正論と正面から向き合い,改めて正義とは何かを問いながら,行動するための本でした。そして読み終えてからしばらくして,ようやく「だから社会正義という言葉を敢えて用いる必要があったのか」と腑におちました。今日はそんな僕の誤解から気づきまでを,動画にまとめる形で紹介したいと思います。 例えば障害者に対してよく「適応」という言葉が使われます。しかし,その適応に向けた支援が,障害者だけに一方的に負担を強いる関わりになっていないでしょうか。例えば近年,コミュニケーションの困難さをこだわりの強さを主な特徴とする発達障害の1つである自閉スペクトラム症の人が,「カモフラージュ」という適応戦略をとることが知られています。下手に喋るとこだわりの強さが露呈して周りから引かれてしまう。コミュニケーションの苦手さゆえに「ほどよく話す」ということも難しい。だから周りの話題に合わせて,自分を押し殺して「定型発達」のフリをする。確かに社会に適応しているかもしれません。しかし,これは本当に望ましい姿なのでしょうか。 他には,セルフケアやストレスコーピングによって,職場ストレスに耐えられる社員の育成が,過重労働やブラック企業の維持・容認に繋がってしまうことはないでしょうか。 このように,個人を変化させ,その社会に適応させようとする支援は,不公正な社会を温存し,維持するための社会装置になっていないだろうか?というのが,本書の大きな問題提起になります。 そこで,社会正義アプローチとは何か,整理しましょう。本書によれば「個人の心の苦悩を,個人の変化だけで解決しようとするのではなく,個人を取り巻く社会のあり方にも目を向け,社会の側にも変化を求める心理支援のこと」と定義づけられています。 そして,クライエントの置かれている状況や苦悩,願いを組織や社会に届けていく,アドボカシーという活動が社会正義を達成するための主な行動として挙げられています。 本書は全15章で構成されており,様々な角度から社会正義アプローチについて説明されています。本動画ではそのうち,僕が最も印象に残った「第5章」をピックアップして紹介したいと思います。 第5章は,このようなインパクトのある言葉からはじまります。 世の中に空気のように存在している「当たり前」には,強力な権力性や暴力性が潜んでいる。 「当たり前」の暴力性。まさに僕が本書を読む前に感じていた,世の中の正義・正論に苦しめられている人の姿です。近年は,SNSの発展によって,さらにその暴力性は高まっているように思います。ではこの第5章では,この言葉をきっかけにどのような論が展開されるのでしょうか。 第5章は「社会構成主義」という考え方に基づくナラティブ・アプローチという概念から,社会正義アプローチを捉える章になっています。 社会構成主義とは,世界のすがたは,人々の間で共有されている言葉のやりとりによって決まる,という考え方のことです。少しわかりづらいと思うので例を挙げると,例えば「休まずに働くのが当たり前」という言葉が共有されることで,「休まずに働くこと」が世界の真実になります。あるいは家族の中で「息子は怠け者だ」という言葉が共有されると,その家族の中では息子は「怠け者」ということになります。しかし,本当に休まずに働くことが世界の真実なのでしょうか。息子は本当に怠け者なのでしょうか。 しかし,その言葉が,その社会で優勢で「当たり前」であるほど,個人がその影響から逃れることは困難になります。 そうなんです。社会の大多数の人たちにとっての「当たり前」には,それに沿えないマイノリティにとって抗いがたい暴力性が伴っているのです。 「結婚して子どもをもうけて育てる,それこそが人の幸せだ。」 「わが子は別に立派でなくても,ふつうに学校に通って,ふつうの会社に入って,ふつうに暮らしてくれればよい。」  このような「当たり前」が,どれだけ結婚しない人,子どもを授かれない人を苦しめているか。学校に通わない人,会社にいかない人を,どれだけ苦しめているか。その暴力性に気付かずに,悪意なく人を傷つけていく。これが「当たり前」の恐ろしさです。 そして,支援を求める人たちの多くは,精神疾患,発達障害,不登校など世の中の多数を占める人たちとは異なる,「ふつう」から疎外されようとしている人々です。そしてなんとか「ふつう」になろう,「当たり前」になろうと,必死で頑張っている方々がたくさんいます。一方で,なんとか「ふつう」になろうとして,先ほどご紹介したカモフラージュのように自分を押し殺すような選択をしてしまったり,苦しくても休まずに働こうとする社員たちの努力が,過重労働やブラック企業を容認する結果になってしまうことがあります。……彼らだけが一方的に負担を強いる社会が,望ましい社会のすがたなのでしょうか。 そこでこの第5章の最後に,とても力強い言葉が現れます。 「当たり前」は変えられる。 私たちは「当たり前だ」と考えられているものすべてに挑戦することができる。 (例えば)「休むことは悪いこと」という「当たり前」を変えていくことを,共に目指すことはできないだろうか。 社会構成主義が教えてくれるのは,「当たり前」は所与のものではなく,人々が作り出したものであり,それはまた人々の連帯によって新たに作り上げていくこともできるのだ,という視点です。つまり現在の「当たり前」だって,これまでにたくさんの人たちのコミュニケーションの中で作られてきたものなのだから,これからの「当たり前」だって,新たに作り出すことができるだろうと。 例えば,タバコに対する「当たり前」はずいぶん変わったように思います。台風などの自然災害時に,計画運休という形で無理に電車を走らせない鉄道会社もずいぶん増えたように思います。以前では考えられなかったことです。 「当たり前」は,変えられる。 ならば,そのために,声を上げなければなりません。だからこそ,生きづらさを抱えている人たちの声を聞く支援者は,その小さき声を社会に届けることで,少しずつ,本当に少しずつでも社会の「正義」を見直していく。このような働きかけが社会正義アプローチであると,理解することができました。 本書では,11のコラムで様々な現場で,社会正義に根差した実践に取り組んでいる心理職の具体的な活動や問題意識が,赤裸々に紹介されています。より具体的な活動を知りたい方は,ぜひこちらのコラムも見ていただけると良いと思います。 最後に。 あらためて振り返ってみます。 本書が「社会正義」という言葉を,敢えて用いることで,何を伝えたいのか? 当初の僕の考えは誤解であることがわかりました。しかし,なぜこのような誤解を招きやすい言葉を敢えて使ったのか? 本書でも「正義」という言葉を用いることの葛藤が,とても丁寧に説明されています。 本書の「おわりに」にこのように書かれています。 なぜ私たちは,これほどまでに正義を語ることに躊躇するのか。そうなんです。ここが知りたかったんですね。 行き過ぎた正義,正義の名を語る暴力という懸念。社会正義の実現を掲げる組織では「正義のために働く自分たちは常に正義であり,間違いはない」と逆転した発想に陥りやすい。過剰なまでの正義の願望のため,異質なものを排除したり,手段を選ばなかったり,または自分は正義の側に立っているという恍惚感に溺れ,結局のところ権力欲求や私欲を満たす過ちを,人類は何度も繰り返してきた。 そうなんです。正義という言葉は,暴力になりやすく,過ちを犯しやすい。非常に危険で,取り扱いが難しい。 でも,本書は訴えます。 では「正義」という用語さえ使わなければいいのだろうか。 単に代替用語を使いさえすれば,上記に述べた諸問題から無関係でいられるのだろうか。それは,幻想であり,間違いだ。責任逃避の姿勢でもある。 だからこそ,私たち編者は,それでも「社会正義」を掲げ,その責任に対峙していくことを選択した。 僕はこの言葉に,強い覚悟を感じました。正義という言葉が持つリスクを理解した上で,それでも社会に向けて「正義」を問う姿勢に。 本書の最後は,正義を問う姿勢に対する強く,謙虚な姿勢が示されています。 固定観念に捉われていないだろうか。 今の私に見えていないものはなんだろうか。 私が経験し得ない多様な生のあり方を不可視化したり,均質化したりしていないだろうか。 誰かの発言権を不当に奪っていないか。 自分は善の側に立っていると思われたいだけなのか。 そうした自問の連続は,栄光や恍惚感などとは程遠く,常に足場の不安定な場所に身を置きながら歩む道だと思う。 僕はこの言葉を聞いた時に,ぼくの仲間である益田先生たち精神科youtuberを連想しました。日々の臨床の中で,患者さんだけが一方的に努力して変わるだけでなく,社会が変わっていかなければならないことを強く感じている。世の中の「当たり前」を変える必要性を強く感じている。 しかし,そのように社会に向けて問う姿勢は,常に苦悩にさらされる。視点が偏っているのでは?と言われる。視聴者数稼ぎでは?と言われる。でもそれが,世の中の「当たり前」を変えなくてもよい理由にはならない。栄光や恍惚感などとは程遠く,常に足場の不安定な場所に身を置きながら歩む道…というのは,本当にその通りだと思います。やっと僕は,なぜ益田先生たち精神科医youtuberが社会に発信するのか,少しだけ理解できたような気がします。そして,これまで以上に応援できるような気がしています。 本書の話題に話を戻すと,社会に「正義」を問うのであれば,「正義」という言葉が持つリスクを十分に理解していなければならない。だからこそ「社会正義」という言葉を敢えて用いることで,自らを律する姿勢を明確にした。著者たちの覚悟と,それを受け止めた出版社の姿勢に,心から敬意を表したいと思います。

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