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玄洋社はテロリストかアジア独立の英雄か

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玄洋社はテロリストかアジア独立の英雄か

玄洋社はよく右翼のテロリスト集団といわれる。
本当にそうだろうか。
その最たるものが玄洋社社員来島恒喜による大隈重信襲撃事件。

大隈重信襲撃事件
黒田清隆内閣の外務大臣大隈重信は、条約改正交渉にあたり、明治22年(1889)アメリカ・ドイツ・ロシアとの間で新たな条約の締結に成功しました。しかし、外国人被告事件で大審院に外国人裁判官を任用することや重要法典を編纂・公布することを約していたことが明らかになると、国内では反対論に火がついて国論を二分する事態となりました。同年10月18日、閣議を終えた大隈外相は、外務省の門前で玄洋社員来島恒喜の投じた爆弾で右足切断の重傷を負うも一命を取り留めました。来島はその場で自決しました。その結果、条約改正交渉も中止となりました。




来島恒喜は、1860年福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれました高場乱の興志塾に学び、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入します。

1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介、竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党の金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語っています。

政府が進める不平等条約改正交渉に対して不満を募らせており、大隈重信が進めていた条約改正交渉を「国辱的な妥協」とみなし、暗殺を決意。その動機と行動は後に広く知られることとなりました。

大隈おおくま
重信しげのぶ
生没年
天保9年2月16日 〜 大正11年1月10日
(1838年3月11日 〜 1922年1月10日)
出身地
佐賀県
職業・身分
政治家 、 首相
解説
父は佐賀藩士。尊皇攘夷派志士として活躍。維新後、外国事務局判事などを経て、明治3(1870)年参議となる。6年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿に就任。征韓論争後、財政の責任者として大久保利通を補佐した。明治14年の政変で失脚。15年立憲改進党を組織、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立。第1次伊藤、黒田両内閣の外相として条約改正に関与。第2次松方内閣の外相兼農商務相。31年憲政党を組織、首相に就任した。40年政界を引退したが、のち復帰。大正3(1914)年再び首相となる。

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