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なぜ人々は去ったのか?宮崎県・寒川集落 廃村の真実

神々旅行記 36,457 4 days ago
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宮崎県西都市にある寒川集落 宮崎県西都市の寒川集落:消滅集落に息づく記憶と記録 宮崎県西都市の山奥、緑深い山々に囲まれた場所に、かつて寒川集落は存在していました。最盛期には50世帯を超える人々が暮らし、活気に満ちていたこの集落は、1989年に宮崎県で初めてとなる集団離村によって廃村となり、今では「消滅集落」として静かに佇んでいます。 集落跡には、かつての生活の面影を残す廃墟となった家屋や、そこで暮らした人々の記憶が、今もなお残されています。この記事では、寒川集落の歴史と文化、そして現在の姿を通して、消滅集落が私たちに問いかけるものについて考えていきます。   寒川集落の歴史 寒川集落の歴史は古く、寒川天神社が慶長2年(1597年)に創建されたという記録が残っていることから、少なくともこの頃には人々が暮らしていたと考えられています。 江戸時代には、寒川村は肥後国球磨郡にある米良荘の一部、寒川谷村(さぶかわだに)とされていました。 当時の記録によると、正式には「さむかわ」と読みますが、通称として「さぶかわ」とも呼ばれていたようです。 山間部に位置する寒川集落では、林業が主要産業として栄え、人々は自然と共存しながら生活を営んでいました。   しかし、1960年代に入ると、林業の衰退とともに、若者を中心に都市部への人口流出が始まり、集落の過疎化が進みます。 1978年には、児童数の減少により寒川小・中学校が閉校となり 、このことが集落の衰退に拍車をかけることになりました。 生活の維持が困難になったことから、1986年11月24日、寒川集落の住民5人が市側に集団移転を陳情。 そして、1989年3月、ついに最後の住民が離村し、寒川集落は廃村となりました。 2007年には、寒川集落を題材としたドキュメンタリー映画「寒川」が制作され、限界集落の実情が広く知られるようになりました。   ■寒川集落のタイムライン 1597年 寒川天神社創建 1878年 42世帯215人が居住 1965年 50世帯211人が居住 1978年 寒川小・中学校が閉校 1989年2月 6世帯13人にまで人口減少 1989年3月 集団離村により廃村 2007年 ドキュメンタリー映画「寒川」制作 2010年 1世帯2人が居住 2022年 集団移転者13人の最後の生存者が死去   寒川集落の文化と人々の暮らし 寒川集落には、山深い自然の中で育まれた独自の文化がありました。その一つが、寒川神楽です。 カウンターテナー歌手として有名な米良美一氏の母親も寒川出身で、幼少期に寒川神楽を鑑賞していたと言われています。 寒川神楽は、集落の伝統芸能として、人々の生活に深く根付いていました。   寒川集落は、不便な山間部に位置していましたが、人々は自然の恵みを生かし、助け合いながら暮らしていました。 集落のほとんどが同郷の出身者で、親戚関係で繋がっていたため、強い共同体意識が育まれていました。 人々は、自給自足に近い形で農業や林業を行い、厳しい自然環境の中でもたくましく生活していました。 しかし、高度経済成長期以降、林業の衰退とともに生活は厳しさを増し、若い世代の多くが都市部へと流出していきました。   寒川集落の現在:廃墟と化した集落に刻まれた記憶 1989年に廃村となった寒川集落は、現在では廃墟と化しています。 家屋は朽ち果て、窓ガラスは割れ、かつての生活の賑わいは見る影もありません。 しかし、この廃墟の中には、かつてそこで暮らした人々の記憶が、様々な形で残されています。残された家具、家族写真、本棚に並んだ本などからは、当時の生活を垣間見ることができます。   ■その他 寒川の開祖は、米良重供(重朝)〔米良縫殿助重供(重朝)〕(米良6代領主重隆の弟)とされる。およそ1500年代後期から1600年代前期の頃だが、定住の経緯は不詳 地名の由来は、蛇籠(じゃろう)川の旧称「寒川」 寺院は禅宗の東福寺があったが、明治4年廃止。のち校舎に転用 昭和11年11月13日、大火により大半の家が焼失し、多くの住民が転居した。罹災者の多くは福王寺方面に移住 昭和30年代、再び活況を見せる。三財川総合開発事業が着手された頃(昭和34~38年)には、三財・立花発電所の建設関係者の仮設住宅がダム近辺に建ち並んだ 昭和36年2月18日、電灯導入 昭和36年3月31日、公衆電話設置。昭和37年8月10日、各戸に電話設置 ■尾八重の民とは 尾八重の民とは、宮崎県西都市の北東部、山間部に位置する尾八重地区に住む人々のことです。 この地域は、かつては「米良山(めらやま)」と呼ばれており、一ツ瀬川の上流に位置し、自然豊かな環境にあります。 尾八重地区は、日本最大級の古墳群である西都原古墳群を有する西都市にあります。 しかし、過疎化が進み、人口は減少傾向にあります。 そのため、地域活性化のための様々な取り組みが行われています。   ■尾八重の民の起源と歴史 尾八重の民の歴史は、平安時代末期の保安2年(1121年)に遡ります。西都市都萬神社の社人であった壱岐宇多守が、尾八重字湯之片に神楽伝習所を設け、神楽を普及させたことが起源と伝えられています。 尾八重神楽は、五穀豊穣、豊猟、安全と健康などに感謝し、1年の安定を祈るために舞われます。 尾八重の民は、神楽を舞う人のことを「社中(しゃじゅう)」と呼びます。   【神秘旅 - Mituki】サブチャンネル https://www.youtube.com/@MysticalTravels 【隠者の小屋】サブチャンネル https://www.youtube.com/@Hermit-Hut 【Instagram】 https://www.instagram.com/Gods.Travels/ X(旧Twitter) https://twitter.com/GodsTravels Facebook https://www.facebook.com/mikamoto.mituki Threads https://www.threads.net/@Gods.Travels

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