1 珊瑚礁の彼方
2 小さな竹の橋の下で
3 ワイキキの浜辺で
4 南国の夜
5 カイマナ・ヒラ
6 アロハ・オエ
日本では1930年代と早い時期からハワイアンミュージックが親しまれ、
終戦後の1948年には「憧れのハワイ航路」が大ヒット。、全盛期は1950年~1960年代。
敗戦後、駐留軍の影響でハワイアンを日本人ミュージシャンも演奏するようになりました。
1934年 【灰田有紀彦とモアナグリークラブ】結成。
弟の灰田勝彦が唄ってたがこのころはハワイのフラソングはまだ日本には入って来ていなく、
もっぱら和製ハワイアンで「森の小径」「鈴懸の径」などが唄われていました。
1933年(昭和8年)ホノルル出身日系2世のバッキー白片が来日。
1939年(昭和14年)日本青年館で第1回アロハ・ハワイアンズ発表会を開催し、
その後バッキー白片は日本に帰化し【バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ】を結成。
氏は稀代のスチールギター奏者と呼ばれました。
参加メンバー :和田 弘、山口銀次、
ディック・ミネさんは、バッキー白片氏からスチールギターを学び、その関係からハワイアンを歌っていました。
1949年頃はジャズが主体で、その後、ハワイアンバンドが誕生。
1951年
【大橋節夫とハニーアイランダース】結成 メンバー:ダニー飯田
1951年
【ルアナ・ハワイアンズ】結成 リーダー:山口軍一(銀次の弟)
1954年 【山口軍一とルアナ・ハワイアンズ】に改称銀座
『金馬車』『キャンドル』:専属出演。
1957年
【山口銀次とルアナ・ハワイアンズ】に、兄弟が合流したのち改称。改称前に水原弘が加入。2年くらい軍一氏の下でスパルタ教育を受けました。その頃に、酒で喉を潰すよう言われ、酒を飲み始めました。
山口銀次さんは、軍一さんのお兄さんで タヒチ島の現地でタヒチアンを学んできた、代表的ウクレレ・プレーヤーです。
1953年
【山口銀次とマヒナスターズ】結成 メンバー:和田弘
アロハハワイアンズで両人ともにギターをやりヴォーカルのファルセットも得意としていましたが、和田弘は声をつぶしてしまい、山口銀次がマヒナ(月)スターズ (星)を結成。
1957年
【和田弘とマヒナスターズ】結成
山口銀次が弟の軍一と合体した後バンマスになりムード歌謡に転進
灰田 有紀彦・バッキー白片・大橋節夫が率いるバンドは日本三大ハワイバンドと称され、日本にハワイアンミュージックを広めた功績を称えられ、お三方は1986年にハワイ州知事から表彰を受けました。
また、ジャズ演奏者や後の作曲者・編曲者の中には、ハワイアンバンドの経験者がキラ星のごとく並びます。
小野崎孝輔・山屋清・沢田駿吾・宮川泰・浜口庫之助・掘 威夫(高校時代にバンド結成)、、
ハワイは、長い間、最も行きたい外国でした。
「憧れのハワイ熱」は、ハワイ音楽のブームも呼んで、日本人によるハワイアン・バンドがプロ・アマ問わず、いくつも結成されました。戦後政策の名残りで、海外旅行が自由に出来なかった時代でした。
雨後のタケノコのように大学生のハワイアン同好会出身者で、アナウンサーが多いのにも驚かされます
ナイトクラブの舞台には、そうしたハワイアンバンドがひっきりなしに登場していたということです。
1950年代には数千ものハワイアンバンドが存在していたと言われています。
【ダニー飯田とパラダイスキング】
1955年に結成。当初のグループ名は「ダニー飯田とパラダイス・ハーモニー」で、ハワイアンソング中心でした。
1956年に「ダニー飯田とパラダイス・キング」に改名。
1957年に水原弘(ウクレレ兼務)や石川進がボーカルとして参加。水原の説得により、ロカビリー編成にバンドを変更。
当初は米軍キャンプでの活動が多かったのですが、日劇ウェスタンカーニバルに出演するようになり、徐々に人気が高まっていきました。
1958年、水原がソロ歌手になるために脱退し坂本九が加入。
1958年頃からロックバンドになっていきました。また、洋楽を訳詞する「訳詞ポップス」を築き上げた功績は大きいです。
1999年、リーダー死亡により解散。
1960年代になると、流行歌謡ですでに実績を作っていた人たちも、ハワイアン調の歌をリリースするようになりました。
【ヒロ・ハワイアンズ】
メンバー:尾崎紀世彦
箱根ホテル小涌園のバンド募集のオーディションに合格し、17歳でセミプロデビュー。 1964年には念願の日劇出演を果たしましたが、目標達成とメンバーの学業と家業の忙しさから解散.
ハワイアンのリズム「チャント」を広めたことでも知られています。
因みに日本人の海外渡航が自由化されたのは1964年でした。
1970年代半ばくらいでハワイアンブームは終焉を迎えました。