散歩写真スライドー、青梅駅で乗り換えて、日向和田駅で下りる。へそまんじゅうを買って食べる。多摩川を渡り、#梅の公園 、#吉野梅郷 に行く。手前の食堂でそばを食べる。山の斜面が新しく公園になっている。いろんな梅の花、その他の花を、山腹の斜面を上って、見て回る。吉野梅郷は数年前に病気で枯れてしまったという。東側の稲荷神社から出て、旧鎌倉街道を行く。車道に出て多摩川を渡り、#青梅 市街に向かう。市街地に入って、大正、昭和の旧家が残る町並みを行く。昭和レトロ博物館に時間内に入れなかった。向かい側の山、#住吉神社 に上る。駅近の路地にも古い街、建物が残る。特快に乗って帰り、駅前の焼き鳥屋で飲む。
多摩川とは、奥多摩湖の出口、小河内ダムより下流からである。その後、東京都青梅まで山中を東へ流れる。上流部は秩父多摩甲斐国立公園に含まれ、東日本旅客鉄道、青梅線が沿って走っている。御嶽駅周辺は1985年(昭和60)御岳渓流として名水百選の一つに選定され、約4kmの遊歩道が整備されている。
青梅市梅の公園、個人の梅園も多く点在する。都心部より標高がやや高いほか、丘陵の北面に位置するため、見ごろを迎えるのは都心より遅い。2009年、植物防疫法の法令検疫対象であるプラムポックスウイルスの感染が、確認されて徐々に伐採された。2013年に農林水産省が「プラムポックスウイルスの緊急防除に関する省令」により、すべての梅、1,266本を伐採した。梅を植樹するにあたって、伐採から3年間、付近で新たな感染が無いことが条件となった。2015年にNPO法人「青梅吉野梅郷、梅の里未来プロジェクト」が設立された。 2017年に3年ぶりに梅まつりが開催された。
鎌倉街道、中世において政治、軍事、文化の中心が鎌倉にあって発達した道である。上州から秩父盆地を通過し、山間部の集落を経て、鎌倉に至る重要な道でした。市内には、埼玉県飯能市(旧名栗村)の小沢峠から入り、上成木の松の木峠、榎峠を越えて多摩川を渡り柚木町に至る。そして、ここ梅郷地区では、山麓沿いの古集落間を縫って杉平(竹林寺付近)を経て、梅ヶ谷峠を越えて日の出町落合に出るか、または、和田町を経て馬引沢峠から日の出町玉の内に出たといわれる。
青梅、東京都西部、立川市、八王子市、町田市、多摩市と東京多摩地域の業務核都市の一つ。関東山地と武蔵野台地に跨がり、中部を多摩川が東流する。中心市街地は多摩川の谷口集落で、青梅街道の宿場町(青梅宿)として発達した。その後、鉄道の青梅線が通じた。古くから綿織物が盛んで、青梅縞、青梅綿と知られ、山間部は林業が盛んであった。東部に三ッ原工業団地が造成され、ハイテクノロジー関連産業の進出、市街地の既存工場の移転が進められた。伝統行事として、だるま市、青梅大祭がある。名所は、金剛寺、塩船観音寺、武蔵御嶽神社、吉野梅郷がある。西部は秩父多摩甲斐国立公園に属する。青梅マラソン(2月)は、約1万5,000人が参加する。歴史的には、青梅宿が、中心市街の青梅駅周辺にあった。
住吉神社、変形春日造(背面入母屋造)の本殿は、正徳六年(1716)に建立され、棟札に泉州(大阪府南部)出身の大工名も記載され、上方建築の影響がみられる。拝殿、幣殿の再建は、文化七年から天保六年頃と推定され、江戸時代に立てられた本殿、幣殿、拝殿が一体として残る。境内地に、稲荷神社、八坂神社、大鳥神社をはじめ、櫛笥大納言隆望卿女歌碑、小林天淵筆塚碑等があり、青梅宿の町人文化の高さを今も伝えている。
拝殿天井に描かれた雲竜図は、文政七年(1824)住吉神社拝殿新築の際、画家小林天淵の筆になる。天淵四十七歳のときの力作、代表作である。
笥大納言隆望卿の女(娘)の和歌を、江戸時代に活躍した青梅出身の文人小林天淵の撰文、小林綾繁の書による。万葉仮名で「はるかにも ここにうつして すみよしの かみがきふかき めぐみをぞおもふ」と刻んでいる。
ニコンD7500レンズ18-105mm 使用する。