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『臨済録』に次の一節があります。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「ある日、師は僧堂の前で坐っていたが、黄檗がやってくるのを見ると、ぴたりと目を閉じた。
黄檗はぎょっとして居間に引きあげた。師は黄檗の後について居間に行き、その失礼を詫びた。黄檗は側に立っていた首座に言った、「この僧はまだ若いながら、その筋を心得ておるな。」首座は言った、「和尚は足が地に着いていないくせに、こんな若僧を印可なさるとは!」黄檗は自分の口を拳骨で一打ちした。首座「お分かりなら結構です。」
という文章であります。
ここの「僧堂の前で」というのがまず問題であります。
柳田聖山先生は、中公文庫の『臨済録』で「僧堂の外で」と訳しておられます。
何々の前でというと、それは外という意味になりましょう。
部屋の前で待っていてくださいと言うと、部屋の中に入らずに外でという意味であります。
しかし、ここのところ、昨日考察したように、「前」は名詞を場所化するものとして見たならば、単純に僧堂でということになります。
僧堂は今でいう坐禅堂のことです。
禅堂で坐禅したとみておきます。
そのときに、黄檗禅師がやってこられました。
すると臨済禅師は目を閉じたのでした。
はたしてこれは何を意味するのでしょうか。
坐禅は目を開くというのが、ただいま原則となっています。
それは私たちが今読んでいる『坐禅儀』には、
「耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を支え、唇歯相著けしむることを要す。
目は須らく微しく開き、昏睡を致すこと免るべし。
若し禅定を得れば、其の力最勝なり。
古に習定の高僧あり、坐して常に目を開く。蓋し深旨有り、達者焉を知るべし。
向の法雲円通禅師も、赤た人の、目を閉じて坐禅するを呵して、以て黒山の鬼窟と謂えり。」
という文章があります。
筑摩書房の『禅の語録16』にある現代語訳を参照します。
「かならず耳は肩に対し、鼻は臍に対して垂直になるようにし、舌は上の顎を拄え、上下の唇と歯を互いに合わせ、目は半眼に開いて居睡りをしないようにすることが大切である。こうして禅定の境地に入ることができるとき、その効果は最高である。
昔、ある高徳の僧は禅定に入るのに、いつも目を開いていたという。ちかごろ、東京法雲寺の円通禅師も、目を閉じて坐禅するものを叱って、地獄の洞穴坐禅だといわれている。おおいに意味のある言葉で、道を得た人にして、はじめて言えることだ。」
という意味であります。
ここのところを、禅文化研究所発行の『新・坐禅のすすめ』で、円福寺僧堂の政道徳門老師が、
「横から見た時に、耳、肩、肘を通る線が大地に対して垂直になっている。
同様に、前から見た時に、鼻筋、へそを通る線が身体の中心を通って大地に対して垂直になっている。
舌は上あごの歯のつけね辺りに軽く押し当てる。
くちびると歯は一文字に結ぶ。
歯はくいしばらないように。
目は、一度正面を真っ直ぐ見つめて、そのまま目線を下げます。視界を狭めることで眼から入る情報を制限します。目線を下げると同時に顎は少し引いておきます。」と解説されています。
そして更に「目を開くことについて」と丁寧に解説してくださっていますので、引用します。
「いわゆる「瞑想」と呼ぶ伝統では、集中しやすいという理由から目を閉じることが多いようですが、「坐禅」の伝統では常に目を開いて「半眼」を保ちます。これは単に「眠ってしまうのを回避するため」という理由だけではなく、目を閉じて瞑想をすることで(特に初心者が) 幻覚に巻き込まれるのを防ぐためだとも考えられています。
いずれにしても、「動静間なく」ということを重んじる坐禅の伝統では、目を開いておくことで常に日常とつながっておこうとする意志がここに感じられます。」
と説いてくださっています。
この説には私も全く同感なのであります。
目を開いておくことには意義があります。
そこで、臨済の坐禅では、目を開けて坐禅するのに、その規則を破って臨済禅師はわざと、規則への反抗を示したと解釈する方もいらっしゃいます。
そして黄檗禅師は、坐禅のきまりが壊されるのを怖れたという解釈であります。
もっとも『坐禅儀』に書いているからといって、臨済禅師の頃の坐禅がそのようだったとは言い切れません。
『坐禅儀』に例として説かれている円通禅師という方は、天衣義懐禅師の法嗣で、一〇二七年から一〇九〇までのお方です。
西暦八六七年にお亡くなりになっている臨済禅師よりははるか後の方です。
『天台小止観』には、
「つぎに口を閉じる。唇と歯をそっと上下あいささえつけ、舌はもち挙げるようにして上顎に向ける。
つぎに眼を閉じる。
わずかに外光を断つ程度でよい。それがおわったら端身正坐する。(関口真大『天台小止観』(大東出版社))と説かれています。
古い書物にははっきりと目を閉じると書かれています。
『坐禅儀』の円通禅師が目を閉じて坐禅するのを叱ったというのは、当時目を閉じて坐禅する者が多かったということを表しているとも読み取れます。
そうしますと、「目を閉じる」は、坐禅して禅定に入っていたとも読み取ることはできます。
その立派に禅定に入っている臨済禅師をご覧になって黄檗禅師は、怖れる様子をなしたということになりましょう。
山田無文老師は禅文化研究所発行の『臨済録』では、
「ある時、臨済が僧堂で坐禅しておると、師匠の黄檗が検単にやって来た。すると臨済、眼をつむって居眠りをする真似をした。
このへんが、臨済のずるいといえばずるいところである。
とかく、居眠っておっても師匠の顔を見ると、坐禅しているような顔をしたいものである。
臨済は坐禅をしておったが、師匠の来るのを見ると居眠りをしてしまった。
これは逆手である。
このとおりの横着者でございます、坐禅なんぞめったにいたしません、というような顔をしておったのである。
しかし、さすがに師匠も師匠だ。
臨済がずるければ、黄檗もずるい。
こいつ、なかなか油断ができんな、 眠った虎だ。
いつ噛みつきよるか分からん。
ソーッと、恐る恐る前を通るようなふりをして、方丈の自分の部屋に帰ってしまったのである。
師匠と弟子とでひと芝居やらかしたわけである。」と提唱されています。
無著道忠禅師は「虎の睡るが如しと謂って怖るる勢いを作す」と註釈されていますので、その伝統の解釈に則っています。
ともあれ、整理しますと、目を閉じていたというのも、敢えて目を開いて坐るというきまりに背いたか、或いは『天台小止観』にあるように目を閉じて坐禅して禅定に入っていたのか、或いは睡ったふりをしたのかという解釈が成り立ちます。
ただ言わんとしているところは、すでに大悟して、この身このまままるごと仏であると自覚した臨済禅師の堂々たるたたずまいに、黄檗禅師も打たれて大いに認めたということであります。
横田南嶺
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