舞踊家《崔承喜》年譜
1910年 日本が韓国を併合
1911年 ソウルの裕福な家庭に二男二女の末っ子として生まれる。 一説には、 江原道洪天で生まれたと2005年に洪天郡守が内外に宣言。
1922年 小学校を飛び級で卒業。淑明高等女学校に入学。 すべての学科でトップクラスの成績をあげるが、 特に音楽・舞踊の成績が良かった。
1925年 15歳で同校を卒業。
1926年 兄承一に誘われて石井漠舞踊団京城公演を観る。周囲の反対を説得し、石井漠を頼り渡日。
1927年 石井漠の京城公演で 「セレナーデ」でデビュ 。
1929年 石井漠舞踊団を離れて、京城に崔承喜舞踊研究所を設立。
1930年「第1回創作舞踊発表会」を京城で開催。
1932年までに9回の発表会を催し 、京城だけでなく朝鮮各地でも興行する。
この頃、 朝鮮舞踊と鼓を名手韓成俊から手ほどきを受ける。
1931年 兄承一らの紹介で、プロレタリア文学者安粥承(安漠)を知り、 結婚する。安弼承が、 抗日・朝鮮独立運動に連座した疑いで逮捕される。
1932年 長女安勝子(安聖姫)を出産。
1933年 舞踊活動が困難になり 、一家で石井漢のもとに一時身を寄せる。
1934年 「第1回新作舞踊発表会」を日本青年館で催し、川端康成など多くの文化人・知識人が賛辞を送る。
音楽映画 「百万人の合唱」に幼稚園の先生役として初めて映画出演。
安粥承は石井漢の名をもらい安漠とし、崔承喜のプロデューサーとしての役割を果たす。
1935年 九段に崔承喜舞踊研究所を設立、 第2回新作舞踊発表会(第3回も)を日比谷公会堂で催す。この頃から、学用品、化組品、菓子などの宣伝モデルに頻繁に登城するようになる。
1936年 自身の半生が描かれた映画 「半島の舞姫」(今日出海監醤)に出演。
西条八十詞 「郷愁の舞姫」 「祭りの夜」の2曲をレコーディングする。
第3回新作舞踊発表会を催す。著作 「私の自叙伝」を出版。
1937年 渡欧告別新作発表会を東京劇場で催し、娘勝子が初舞台。招聘されサンアランシスコで第1回海外公演を催す。
1938年 ロサンゼルス、 ニューヨ ―クで公演。ニュー ヨ ―クで世界的舞踊家として認められる。しかし 、在米朝鮮人活動家から崔承喜は日本に利用されていると批判され、 公演が何度も中止される。
1939年 「コリアンダンサー」と銘打ってパリ公演、 好評を博す。
観客には、 ピカソ、 ジャンコクト 一、 ロマンロランなどがいた。 周恩来も留学生時にパリで崔承喜の公演を観たと後に語っている。
続いてヨーロッパ各地で巡回公演し、名声を高め、国際的地位を固める。ブリュッセルの第 2回国際舞踊コンクールで審査員を務める。
第2次世界大戦の勃発でヨ ―ロッパを脱出、再びニューヨークで公演し、ストコフスキー、 スタインベックも鑑賞した。
1940年 アメリカ、 中南米各地で巡回公演した後、 日本に戻る。
1941年 日本各地を巡回した後、朝鮮、満州(現在の中国東北地方)にも行き、百回以上の公演をする。この時、朝鮮の郷土舞踊を研究、収集する。東京劇場で新作舞踊公演。日本の古典舞踊を取り入れた創作も発表。
1942年 朝鮮、中国、満州で慰問を兼ねて130回以上の公演。
この時、中国舞踊に関心を示す。帝国劇場で17日間240回の連続公演。
1943年 中国、 満州各地で慰問を兼ねて公演。連日満員の記録的成功を収める。
1944年 帝国劇場で20日間23回の連続公演、 成功を収める。
朝鮮、中国で公演をした後、日本敗戦まで北京を根拠に、梅蘭芳について中国の古典舞踊を学ぶかたわら、「崔承喜舞踊短期訓練隊」を設立、 朝鮮舞踊の普及に努める。
1945年 長男の秉建を出産。
日本軍の慰問先で終戦を迎える。
戦後設立された朝鮮文学建設央協議会から「親日派芸術家」と批判される。
1946年 ソウルに帰り、安漠ら総勢13名と麻浦の渡し場を下って仁川から共和国に入国する。
1947年 「崔承喜舞踊研究所」を設立。以後3年間、朝鮮舞踊をはじめ、中国、西洋舞踊なども教える。
平壌地区の代議員に当選。
1948年 平壌で聞かれた南北連席会議歓迎会で公演。
安聖姫、世界青年平和友好祭舞踊の舞でグランプリ受賞。
崔承喜、ブタペストの世界婦人会議に参加。
1949年 安漠、平壌音楽学校学長になる。
北京のアジア婦人大会に安聖姫とともに参加。
4月7日、 民族舞踊劇 「半夜月城曲」初演。
1950年 訪ソ芸術団としてソ連各地を公演。
6月25日、朝鮮戦争勃発。
安聖姫はソウルをはじめ、韓国各地で人民軍慰問の公演をし、九死に一生を得て共和国に帰る。一家で北京に避難。
1951年 周恩来の支援を得て、北京の中央戯劇学院に崔承喜舞踊訓練班を設立。後進の養成とともに、京劇の改革にも参加。中国各地を公演。
共和国政府より国旗勲章第2級を受ける。
安聖姫、 第3回ベルリン世界青年学生平和祝典舞踊コンクールでl位に入賞。
1952年~1953年
舞踊家同盟委員長になり舞踊研究所が国立になる。人民俳優の称号を受ける。 安漠、文化部副部長(副大臣)に就任。
安聖姫、ソ連留学。
1955年 崔承喜舞踊生活30周年記念公演。“私の舞踊生活30周年を迎えて”発表。8月14日、民族舞踊劇 「沙道城物語」初演。
1956年 安聖姫、 モスクワ留学を終え帰国。
モランボン劇場でリサイタルを行い、金日成主席も観覧する。
崔承喜、舞踊団を率いて東欧各地を巡回公演する。
1 0月4日、民族舞踊劇 「光明」初演。
1957年 モスクワ第6回青年学生平和友好祭で民族舞踊部内の審査員を務め、 そこで石井漠夫安らと再会する。
日本の文化人 ・ 知識人らが「崔承喜舞踊団招聘委員会」を結成、署名活動までするが、実現しなかった。
9月、崔承喜舞踊団(100名、団長:崔承喜)ソ連、フやルガリア、アルバニア、 チェコスロバキアの32都市で公演。
10月、世界青年平和友好祭モスクワ大会祝典民族舞踊部内審査員を務める。
10月、雑誌 「朝鮮芸術」 にソ・マンイル(文学家同盟書記長)「朝鮮を輝かせて」 で崔承喜の半生を12回にわたり掲載。「崔承喜舞踊劇台本集」 を出版。
1958年3月15日、朝鮮芸術出版社より 「朝鮮民族舞踊基本l 」発刊。
金日成主席の10月14日の教示により崔承喜自己批判する。
4月18日、民族舞踊劇「玉蓮池の伝説」初演。
9月30日、「朝鮮民族舞踊基本」(Ⅱ)を発刊。
1959年3月13日 、民族郷踊劇「赤い志の人たち」初演。
9月8目 、共和国創建10周年を記念して、3,000名が出演する音楽舞踊叙事詩 「栄えあるわが祖国」で総安舞を担当し、自己批判から復帰。
1960年崔承喜、在日朝鮮人帰国者の迎接委員になる。
1月31日、清津港に俳優の黄徹、 歌手の金完羽らとともに永田絃次郎(金永吉)を迎える。
8月14日、民族舞踊劇「赤い昭光」初演。
8月29日、民族舞踊劇「日が昇る時」初演。
1961年 崔承喜、文芸総の中央委員、続いて祖国統一中央委員になる。
崔承喜誕生50周年記念公演を平壌大劇場で行う。
映像「朝鮮民族舞踊基本」撮影。
4月16日、民族舞踊劇「桂月香」初演。
7月、舞踊叙事詩「大同江のほとりで」初演。
1964年2月28日、朝鮮文化芸術総同盟出版社より 「朝鮮児童舞踊基本」出版。
1965年JO月、論文「労働党時代に燦然と花開く舞踊芸術」を発表。共和国での20年間の舞踊全般を総話。
1966年共和国の文学新聞に「朝鮮舞踊の動作と、その技法の優秀性及び民族的特性」を発表。
1967年朝日新聞に崔承喜一家が監禁されたという記事が掲載される。
1969年8月8日 、死亡
1994年5月、金日成主席、回顧録“世紀とともに”第5巻で、崔承喜を評価。
1995年5月、金正日国防委員長が崔承喜の甥であるチェ・ヒョソブ(舞踊家)、 チェ・ロサ(詩人)と会い、崔承喜が名誉回復したことを直接伝える。
2003年2月12日 、平壌兄弟山区域愛国烈士陵に安置される。