68年10月17日に行った大阪での第2次フォークル解散コンサート第2部3人(加藤和彦氏/北山修氏/端田宣彦氏)による演奏。
(第1部は結成時第1次のメンバー芦田雅喜氏、平沼義男氏を加えた5人編成で演奏)
この日より10日前の東京渋谷公会堂での音源は69年2月にLP「フォークル・さよならコンサート」として発売されているが、アルバムには「イムジン河」は収録されていない。
これはこのグループ(第2次フォークル)のプロ活動1年間の締めくくりとして演奏された最後の「イムジン河」です。
以下フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
もともとこの曲は、1960年前後松山猛氏が京都での中学時代に朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけで、朝鮮学校の友人からメロディーと歌詞を教わり、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたものがベースとなっています。
後に第一期フォークルのメンバーと知り合いになり、松山猛氏が加藤和彦氏に口頭でメロディを伝え、それを加藤氏が採譜したものがフォークル「イムジン河」の原曲となっています。
教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山氏は2番と3番の歌詞を付け加え、1966年当時アマチュアグループフォークルの持ち歌となりました。
プロデビューして大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として1968年にリリースされたのが、アマチュア時代から歌い継いできた「イムジン河」でした。
ところが発売前に数回ラジオにかけた後、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売を中止することになります。この事が結果的に「イムジン河」の放送自粛に繋がっていきます。
フォークルの「イムジン河」に対する日本国内での過敏な状態は1990年代-2000年代前半頃まで続くことになります。
#ザフォーククルセダーズ #イムジン河#加藤和彦#フォーククルセダーズ