0:00 綿つみの唄(作詞/作曲:D・フィッシュ/訳詞:不詳)
2:30 花嫁(作詞:北山修/作曲:端田宣彦・坂庭省悟)
1971年8月第3回全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)でのライブ音源です。
クライマックスはプロフェッショナルらしい端正な歌と演奏を披露しています。
同日のステージには斉藤哲夫/ガロ(デビュー前)/六文銭/五輪真弓/岡林信康/加川良/遠藤賢司/はっぴいえんど/浅川マキ/カルメンマキ/かまやつひろし/ミッキーカーチスなどが出演。
『綿つみの唄』は有名な「コットン・フィールズ」の日本語詞で、はしだのりひことシューベルツの弟分グループとして活動していたマヨネーズがコンサートで演奏していた曲です。
ちなみに翌年そのマヨネーズに在籍していた中嶋陽二氏と坂庭省悟氏が端田氏に誘われ「はしだのりひことクライマックス」に参加しています。
その後、坂庭氏は高石ともや氏のグループ「ザ・ナターシャー・セブン」に参加することになります。
『花嫁』は先に曲が完成していて、当時ディレクターだった新田和長氏が北山修氏に作詞の依頼をし、北山氏は明るい曲調に合わせ、自身の母親をモデルにした前向きな詞を完成させます。
ボーカルも藤沢エミさんを端田氏が決めて連れてき、はしだのりひことクライマックスが結成されました。
こうして曲とボーカルの準備も整い、いざ曲に詞を乗せる日になって事件が勃発しました。
あろうことか、スタジオで突然端田氏は別の人にも作詞を頼んでいて、「こっちの歌詞も一回だけ歌わせてくれ」という事になりました。
ここで何も聞いていない北山氏は当然怒ってしまいます。
更に、もうひとつの歌詞を歌い終わった端田氏は、「これ、良いでしょう」と北山氏の詞をボツにするよう求めたそうです。スタジオが凍り付くほどの険悪な雰囲気に包まれた中、その日たまたま見学に来ていた岡林信康氏がポツリと「『花嫁』のほうがいいんじゃない」と言ったそうです。この岡林氏の一言で決着し、後の大ヒット曲『花嫁』は無事誕生するのですが、北山氏はそんな端田氏を許せず、長い間絶交状態となりました。
これから43年後の2014年に端田氏からの働きかけで再会し北山氏に謝罪したそうです。二人は2年後、一緒にコンサートを開いています。
北山氏は「この再会の目的は長年パーキンソン病を患っていて死期を悟った端田があの時の謝罪と共に最後に一緒に歌いたかったのかもしれない。」「仲直りするチャンスをくれた端田にとても感謝している。」と語っています。
(2019年3月週刊現代『熱討スタジアム』記事より)
「第3回全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)」
三回目に当たる本大会は、主催は中津川労音内にある「フォーク・ジャンボリー実行委員会」であったが、日数は3日間、観客はピーク時には2万5千人と前年の3倍にもなり、もはやアマチュアイベントのレベルではない大規模なものになっていました。
この大会を有名にしたのは一部観客によるメインステージの占拠事件でした。
8月8日午後10時ごろ演奏中に観客300人ほどが隊列を組んでステージに乱入し演奏を中断させたのがこの事件です。
レコード会社などの周囲の反対を押し切って、混乱した第3回全日本フォークジャンボリーを最後に、打ち切りを決定しました。
当初から余りに巨大化してしまい元々のコンセプトから離れていってしまったジャンボリーをこの3回目で終了するつもりでいたところ、たまたまこのステージ占拠事件がおこり、「これで大手を振ってやめられる良い理由が出来た。」と思っていたというエピソードもあります。
#はしだのりひことクライマックス#坂庭省悟#花嫁#北山修