浄土真宗本願寺派御正忌報恩講
2025年1月14日
15:30 初夜〔正信偈、引き続き改悔批判〕御影堂 にて
美濃(神路・大間見・為実)・越前(下半原・荷暮・大谷・久澤・下伊勢・上秋生)九ヶ村同行講御頭人(おとうにん)として正信偈の調声人を勤める。
これは僧侶以外では他に例を見ない。
石山本願寺の変は元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。 本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って(大坂拘様)11年戦った。
8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す。
紀州鷺森へ顕如退去後も教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の2派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も石山を出ることで内紛には決着したが、紀州鷺森に合流することは許されなかった(義絶)。信長を避けるように東海・北陸を転々(秘廻)とする。
このことが美濃・越前九ヶ村と関係してくる。
福井県の歴史家小泉義博氏の「本願寺教如の研究」によると天正8年11月28日(1581年1月16日)(御正忌)には気良小倉村に潜伏した。ここは九ヶ村のうち3ケ村、神路・大間見・為実に囲まれた地所である。下半原で正月を越し、春まで秘廻後、越前大野富嶋南専寺で約1年潜伏したらしい。
天正10年6月2日(1582年6月21日)本能寺の変にて織田信長自害後はご存じのとおりであろう。
ここから憶測になるが、九ケ村民たちは潜伏のため秘廻していた教如から依頼されたのではないか。物資を絶たれていた紀州鷺森へ、御正忌報恩講にむけ食糧や真綿等を補給するようにと。それが天正8年11月26日(1581年1月14日)のことであった。
真冬の油坂峠を命がけで滑り落ち、使命を達成した彼らに報恩講中の御相伴(御門主と食事)が申しつけられたのである。
これは雪深い山村で教如を無事護ってもらいたいとの願いもあったと思うが、おそらく人を見たのではなかろうか。顕如との食事に箸をつけようとしない九ケ村民たちに顕如は特別待遇をあたえた(遍照寺口伝石山法難調査報告書)。本当の極秘ミッションだったのだと思う。
以後、440年。続いてきたのだ。