2025年1月29日(水)
【旧約聖書】
私の命が主の目に重んじられ、主があらゆる苦難から私を助け出してくださいますように。サム上26:24(ド)
【新約聖書】
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。IIコリ8:9(協)
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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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使徒パウロはこのように記しています。「あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。」パウロが言っているのは、私たちにとっての恵みとは、イエスが自分自身を貧しくされたことだということです。もともと豊かであったイエスが、みずから貧しくなられたという考え方は、パウロの一貫した考え方で、フィリピの信徒への手紙2章6節では、「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と書いています。
イエスがもし、神さまと等しくあることに固執したとしたら、天から地上世界を眺めて、「人間っちゅうのは自分勝手なものだな」と腕組みをしながら見るだけだったかもしれません。地上に来られても、「俺は神さまだぞ」といって、祭司長や律法学者をバッサバッサと倒していったでしょう。そのように力強い人に、リーダーの姿を期待するのが、私たち人間というものです。しかし考えたいのは、そのような力の支配は、弱い人を切り捨てていくことによって成立しているということです。弱い者を犠牲にして成り立つ社会システムとなるのです。人間はいずれ必ず老いて力が衰えますから、いつかは自分自身が切り捨てられる日が来ることになります。姥捨山方式の支配方法です。数年前にある若い経済学者が、「高齢者は集団自決すべきだ」と大真面目でいったのは、この考え方から根底にあるのでしょう。
しかしイエスはそのようなことはなさいません。イエスは力がありながら、力なない者のように、ひたすら従順に生きられたのです。そして十字架の死に至るまで従順だったのです。それは、この世で見捨てられるように死んでいく人のところ、弱く、貧しいところに神さまはいらっしゃるということなのです。自分の力を手放していくところに神さまはいらっしゃる、自分を無にするところに神さまはいらっしゃる、そのような歩みをしてくださったイエスは、いずれ力がなくなっていく私たちにとっては、まさに恵みそのものなのです。
サムエル記にダビデのこのような言葉が記されています。「私の命が主の目に重んじられ、主があらゆる苦難から私を助け出してくださいますように。」私たちが老いて力がなくなっても、そこに神さまはいらっしゃる。老いの不安、死の恐怖、そこにイエスは共にいてくださって、私たちを救い出してくださるのです。
日本キリスト教団六ツ川教会牧師 桐藤 薫