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日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/2/11)

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2025年2月11日(火) 【旧約聖書】 弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。レビ19:15(協) 【新約聖書】 あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい。ヤコ2:1(ド) --------------------------------------- 「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。 日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。 「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。 釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。 ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。 御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。 どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。 使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。 *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。 ----------------------------------------                    私が学生のとき、先輩の一人に「客観的に言えば…」というのが口癖の人がいました。「第三者的観点」、「当事者以外見方」という意味で使っているのでしょうが、この言葉を聞きながら、そもそも人間は客観的に物事を見ることができるのか、と考えることがありました。ある本を読んでいると、人間は客観的にものを見ることはできない、客観的になることができるのは、その対象に対して興味感心を一切持っていないことに限られる。しかし、その事柄ことについて言及しようとした途端に興味感心がゼロということはありえないので、客観的にものを見ることはできない、というような説明だったと思います。そして客観的に物を見ることができるのは神だけであって、人間がその言葉を使うと、ただの責任逃れにしかならない、とも書いていました。これには考えさせられました。  本日与えられたヤコブの手紙には、このように書かれていました。「あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい。」これは聖書協会共同訳では訳がかなり異なっていて、「私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。」と訳されています。この後に続く御言葉を読むと、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人、汚れた服を着た貧しい人がそれぞれ教会に入ってきて、きらびやかな服を着ている人には、「どうぞこちらにお座りください」と言い、貧しい人には「立っていか、そこら辺に座っていろ」ということをしてはならない、と書かれています。要するに、「人を分け隔てする」というのは、「えこひいきする」ということです。ローズンゲンで「人の外見に惑わされず」と訳しているのは、この続きの文章を意識してのことでしょう。  現実問題として、人を分け隔てしない、えこひいきをしない、人の外見に惑わされないというのは、私たちには不可能なことです。「人を分け隔てしてはいけませんよ」というハードルの高い道徳律としてこの御言葉を聞くより、むしろ人を分け隔てしている自分に気づくことが大切です。仮に「私は誰であっても分け隔てしません」と断言したとすれば、「私は物事を客観的に見ています」というように、現実に不可能なことであって、申命記10章17節に書かれていることですが、偏って見ることがなく、誰でも平等に愛するのは神さまがなさることなのです。レビ記のこのように書かれていました。「弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。」私たちの物の見方には必ず偏見があります。この偏見に気づかず、自分は客観的だ、自分は偏っていない、自分は中立だ、と思い込んでいることこそ、問題は根深いのです。 日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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