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日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/2/3)

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2025年2月3日(月) 【旧約聖書】 御手が私たちの上にあって、神は私たちを救い出してくださった。エズ8:31(ド) 【新約聖書】 (パウロの手紙)どんな迫害を私が味わわなかったことがあるでしょうか。そのすべてのことから、主は私を救い出してくださったのです。IIテモ3:11(ド) --------------------------------------- 「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。 日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。 「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。 釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。 ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。 御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。 どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。 使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。 *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。 ----------------------------------------                    最近、このような話を聞きました。あるクリスチャンの男性のご子息が、雪降ろしの最中に事故で亡くなってしまったそうです。その男性は「神さまがいるならどうして息子は死んでしまったのか」と言って、それに以降、教会に行かなくなったそうです。ご子息を亡くされたのは大変気の毒なことですが、また、それで教会に行かなくなるというのも、大変残念なことです。  信仰を持つと、神さまが常に守ってくださって何のトラブルもなく、平穏無事に過ごせるのかといえば、そうではありません。家内安全、商売繁盛を祈願するのは、どこにでもあるような現世ご利益の神です。しかし本当の神さまはそのような、現世ご利益に応じてくれる方ではありません。使徒パウロはテモテにこのように語ります。「どんな迫害を私が味わわなかったことがあるでしょうか。そのすべてのことから、主は私を救い出してくださったのです。」パウロは福音を宣べ伝える者となってから、ユダヤ人からも異邦人からも迫害を受けていました。苦難続きだったわけです。しかしそこで、「神さまがいるなら、どうしてこんな苦難を受けるのか」とは言わないのです。正しく信仰を宣べ伝える者は、苦難を受けるものなのです。それが人類の罪を背負って十字架にかかってくださったキリストに倣う生き方であり、その先には永遠の命という大きな恵みがあるのです。それに倣うようにとパウロはテモテに勧めているのです。実際、テモテもパウロと同様に迫害と苦難に耐えて福音を宣べ伝えたのです。  信仰の道を歩むとは、苦難のない人生を歩むことではありません。苦難のなかに救いを見出す生き方をすることです。コケない人生ではなく、コケても立ち上がる人生です。先日、私のヨガの先生が、「ヨガのバランスポーズで、バランスを崩さない方法を教えるインストラクターや書籍はたくさんあるけれども、バランスを崩してしまったときの回復の仕方を教えてくれることはほとんどない」とおっしゃっていました。これはヨガに限らず、コケないことばかりを教えて、コケてしまったときの立ち上がり方を教えてくれるのは少ないかもしれません。一度コケたら終わり。そう思うと萎縮してしまって、無難に生きようとしてしまうでしょう。最近、学生を指導していて、失敗を極端に恐れる学生が増えているように思うのですが、一度コケたら終わりと思い込んでいるのかもしれません。  教会はコケても立ち上がることを教えるところです。旧約聖書エズラ記にはこのように書かれていました。「御手が私たちの上にあって、神は私たちを救い出してくださった。」そもそも躓きのない人生はありません。教会は躓いても、苦難にあっても、そこに神さまの姿を見ることができる、そこから立ち上がることができる、今やほとんど教えられることのなくなった、失敗からの回復を教えてくれるところなのです。 日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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