2025年2月7日(金)
【旧約聖書】
神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。詩63:2(共)
【新約聖書】
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。黙22:17(協)
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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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今では信じられないかもしれませんが、私が中学高校生のとき、運動部では練習中に水を飲むのは禁止というのが当たり前でした。水を飲むとバテるという都市伝説のようなものがありました。ですから、私も運動部に所属していましたが、練習中はひたすら喉の渇きを我慢して練習し、休憩になると、水道のあるところに走って、蛇口から水をそのままがぶ飲みしていました。浄水器がない、冷えない、美味しくない、そんなこと関係ありません。とにかく水を飲みたい、その一心でした。同じ部活の友人たちも皆、同じです。ラグビー部のある人は、喉が渇きすぎて、水たまりの水を飲んだこともあると言っていました。そうなる気持ちはとても分かります。随分前、ナチスドイツによるユダヤ人のホロコーストを描いた映画を見ているとき、収容されて満足に食事を与えられていないユダヤ人男性が、地面にこぼれたお粥のようなものを、地面に顔をつけてすするというシーンがありました。強く印象に残っています。お寺の修行道場で修行された方の中には、空腹に耐えかねて、夜、厨房のゴミを漁ったことがあると言っていました。極度の飢え、渇きはそのようになるのです。
本日与えられたヨハネの黙示録にはこのように書かれていました。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」ここはヨハネによる福音書4章に書かれている「サマリアの女」の物語と関連があります。15節でサマリアの女はイエスに向かって「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と言っています。その命の水とはイエスご自身であり、その命の水を飲むこととは、御言葉を聞くことなのです。そしてそれは、値なしに、つまり無償の恵みによって飲むことができるのです。水を飲みに来るものを拒むものはないのです。
命の水は、聖書のなかに溢れています。しかし、それを飲もうとしないのは、渇いていないからに他なりません。それとも、渇いていることに気づいていないのかもしれません。あるいは、渇きを別のもので潤そうとしているのかもしれません。渇ききった身体は、身体に入って来たものを、ものすごい勢いで吸収します。渇ききった身体を、甘い清涼飲料水などで潤すと、それは体を壊す原因となります。しかし今の時代、自らの渇きを耳触りの良い言葉で潤そうとしている人は多くいると思います。その意味で、命の水は決して耳触りが良いものではなく、美味しいものではないかもしれません。しかし、だからこそ、命が喜ぶ潤いを与えてくれます。命に飢え渇いて人、生き方に飢え渇ている人、希望に飢え渇いている人、誰でも命を飲むことが赦されているのです。その水は、聖書に、そして教会に絶えず溢れるようにわいているのです。
日本キリスト教団六ツ川教会牧師 桐藤 薫