特集です。29日で発生から50年を迎えた大洋デパート火災。
『人災』ともいわれた火災の教訓を伝え続ける元消防士など、当時を知る人々の証言で『あの日』を振り返ります。
【内田 平十郎さん】
「(私が出動したのは)今のじゃなかったかな。あんまりいい車じゃなかったから、多分これだ」
元熊本消防局の消防士、内田 平十郎さん73歳。
50年前の29日、非番だった新米消防士は、未曽有の大火災の現場にポンプ隊として出動した。
【内田 平十郎さん】
「現場に着くとアーケード内に『ドーン、ドーン』と音がしていた。人が飛び降りる」
高度経済成長期が終わりを迎えようとしていた1973年。
鶴屋、大洋、寿屋の地場百貨店の牙城に岩田屋伊勢丹が進出し、デパート黄金時代ともいわれていた。
営業を続けながら売り場を広げる改装工事を行っていた大洋デパートから火の手が上がったのは午後1時すぎのことだった。
【元TKU記者 奥村 隆志】
「ドーン、ドーンと音がしていた。当時は何の音か分からなかった」
大洋デパート跡地の商業施設で行われた消防訓練を見つめるのは元TKUの報道記者、奥村 隆志さん。
【奥村 隆志さん】
「ボヤだろうと思った」
50年前、フィルムカメラを手に1階部分で回し始めた。
取材映像には買い物客の姿はなく、荷物を運び出す従業員の姿が記録されていた。
上層階で何が起こっているのかを把握している様子はない。
しかしこの時、2階の階段部分から上がった炎と煙はダクトや階段に積まれた荷物をまるで煙突のように伝って上の階へと延焼が拡大していた。
当時 約1200人がいたデパート内に非常放送が流れることはなく、買い物客もこう証言している。
【当時逃げ出した買い物客】
Q従業員からの誘導は?
「全然(なかった)。ただ『屋上!屋上!』と言ってみんな上がっていた。工事の人に『綱でここから降りるといい』と言われて綱にぶら下がって足場を降りた」
【内田 平十郎さん】
「1階がこれではダメ。(客に)避難経路を示さないと荷物なんてどうでもいい」
そもそも、火元となった2階の階段部分では、消火器の使い方が分からず初期消火に失敗していた。
さらに、店からの119番通報もなかった理由は、後に消防がまとめた『防火管理状況』にこう記されている。
「消防計画は作成されておらず、訓練も実施されていなかった」
停電で誘導灯や非常照明もない中、黒煙の中を上へ上へと逃げる買い物客。
「まさか」の連鎖は止まらなかった。
【内田 平十郎さん】
「5階から進入した隊員がまだ入っていない場所に入った。工事用の足場もあった」
改装工事の足場は脱出する人々や窓から進入する消防士にとって一縷の望みと思われた。しかし・・・
【防火管理状況】
「窓のほとんどの部分が合板でふさがれ、無窓状態であった」
延焼を防ぐ防火シャッターも閉まらず急速に延焼は拡大。ふさがれた窓からの救出は困難を極めた。
【奥村 隆志さん】
「2階で撮影していたらバーッとエスカレーターから炎と煙が来て逃げた。デパートは公共の場だから『まさか』『まさか』が積み重なっていった感じ」
階段やエレベーター付近で多く発見された遺体。建物内では出口を求めて右往左往するうちに多くの人が一酸化炭素中毒で倒れていった。
当時23歳だった消防士の内田さんは、初めて火災が奪った命の重さを知る。
【内田 平十郎さん】
「6階に上がってからアーッっていう感じで、7階は人が折り重なっていた」
まさかの事態になぜ備えていなかったのか?
その後、消防法や建築基準法改正のきっかけともなった大火災は『人災』だった。
「地元消防局の再三にわたる警告と指導を無視して防災設備の維持管理を全く行っていなかった」
【内田 平十郎さん】
「消防も悪いんです。行政もなかなか強く言える時代じゃなかったし」
内田さんは11月、企業や事業所の防火管理者を前に『命を守る心構え』を伝えた。
【内田 平十郎さん】
「記憶は薄れていくし、忘れたい人もいると思う」
「こういう場所で火災が起きたら自分はどう動くべきか考えてほしい」
決して忘れてはいけない50年前の大火災。
形だけの防火意識では『まさか』の事態は防げないと思っている。
【内田 平十郎さん】
「『こんな大きい火事はもうない』とは言えない。防火体制が整っていても…」
利益より人命を尊重し、常に最悪の事態を想定して備えているか?
失われた104人の命はこれまでも、これからも私たちに問いかけ続ける。