街角写真スライドショー、駒形橋から、西浅草の東京本願寺を見て通り、葛飾北斎の浮世絵の面影を見る。浅草寺の五重塔を垣間見て、松下幸之助の再建した#風雷神門 、明治時代にレンガ造りだった仲見世を裏から見る。浅草寺の全景は見えない。かつて繁華な#浅草 6区をぬけて、言問通りに観音裏の銘酒屋など今はない。千束通りから#新吉原 へ、お歯黒ドブから少し見上げるようにソープ街がある。揚屋通り、大門通りから#見返り柳 を見て、樋口一葉が住んだ龍泉寺町(#竜泉 )による。山谷堀はないが、#土手通り を日本堤、三ノ輪へ、かつては湿原が広がっていたという。#泪橋 を見て、清川、#玉姫稲荷神社 は、新田義貞の縁、辺りは、「明日のジョー」の舞台となった、ドヤ街があった。橋場の、玉姫稲荷の別当寺は、#砂尾山不動尊 。かつて隅田川の両岸に宿場があった、#白鬚橋 を渡って、#白鬚神社 へ、琵琶湖の比良山地が縁という。墨堤通りに子育地蔵、#地蔵坂 を見て通り、向島、#鳩の街通り に入る。隅田川は湿地に広がって、幾筋も流れていたという。「鳩の街」、永井荷風「濹東綺譚」をイメージして歩き、寺島村の「#玉ノ井 」を探る。#地蔵坂通り から水戸街道(国道6号)に出て、また鳩の街通りに入り、赤線の時代、カフェの街(私娼窟)の面影を見る。作家も、木の実ナナもいない。寺島村の鎮守、高木神社を通って、鎌倉、北条氏の縁、#飛木稲荷神社 、圓通寺を見る。かつて隅田川が押上げた台地?というが、押上駅から東武電車に乗る。
浅草寺は、東京都内最古の寺で、金龍山浅草寺と号し、観音菩薩を本尊とする。元は天台宗に属し、昭和25年に独立し、聖観音宗の本山となった。本尊は聖観世音菩薩。浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達した。明治6年、境内が公園地に指定され、明治18年、表参道両側の「仲見世」が煉瓦造の建物になった。明治23年、商業施設と展望塔を兼ねた「凌雲閣」が完成した。大正6年、喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、大衆演劇として隆盛した。関東大震災で浅草区は大半が焼失するが、避難民によって、境内の一部が延焼する被害で済んだ。昭和20年、東京大空襲で本堂(観音堂)、五重塔などが焼失する。戦後、衰退したが、地元商店街によって賑わいを取り戻し、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となって、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は、多く人出で賑う。
#吉原 、明暦の大火(1657)で日本橋の吉原遊廓も焼失した。開設の頃と比較にならないほど周囲の市街化が進んでいて、浅草寺北の日本堤付近に移転した。正式に新吉原と呼ぶ。江戸城の北にあるから「北国」「北州」の異名がある。 周囲に、お歯黒溝(どぶ)、大溝があり、初期には幅5間(約9m)、明治初期に縮小され幅2間(約3.6m)、明治36年頃は3尺(約90cm)ほどの堀が巡らされ、出入口は、山谷堀沿いの日本堤側にあった。外界から隔絶されていた。遊女は、花魁、新造、禿(かむろ)などの身分があり、店も、茶屋を通して格式ある総籬(そうまがき、大店)、路地裏にある小店があった。大店は、社交場の機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たした。江戸前期、一流の遊女は、和歌や茶道など教養を身につけて、馴染みになって、枕を交わすことができた。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙、洒落本の題材になった。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったが、文化の発信地という側面もあった。
遊客に、武士や町人らがいたが、遊廓の中は身分差はなく、武士は野暮だとして笑われた。川柳に「人は武士 なぜ傾城に嫌がられ」とある(傾城とは国を傾けるような美女、遊女を指す)。武士は編み笠をかぶり顔を隠した。武士は経済的に困窮し、町人が客層の中心になっていた。木材で、巨万の富を築いた紀伊國屋文左衛門や、十八大通などと呼ばれた札差(金貸し)たちの豪遊が知られた。1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制が行われ、各宿場が衰退し、吉原の増員が許可された。しばしば大火に見舞われた。吉原が再建されるまで、浅草周辺に仮宅が設けられた。
明治以降、芸娼妓解放令が出され、1875年、遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」で、自由な外出もできず、人身売買の実態は変わらなかった。明治の吉原風俗は「ヰタ・セクスアリス」(森鷗外)や「たけくらべ」(樋口一葉)といった作品からも窺える。一葉は吉原近くの竜泉に小間物屋を構え、当地との縁が深い。
近代以降も大火が発生した。関東大震災、東京大空襲でも全焼し多くの犠牲者を出したが、復活した。戦後、GHQの指令により、公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街、いわゆる赤線となった。
吉原土手、「土手通り」に平行して山谷堀があって、堀を船で通う遊客も多かった。堀と通りの間が土手になっていた。また、日本堤もこの土手を指したものである。
衣紋坂(えもんざか)、遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)。土手通りと吉原遊廓の入口の間にある坂。廓内を出入りする客が見えないようにS字状に道をつけた。
見返り柳、衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱き、振り返ったという。昭和になってから植えられた。
大門、吉原の正面玄関。治安目的、遊女たちの逃亡を防ぐ。江戸時代に黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期に鉄門が築かれたが、1911年の大火で焼失した。
樋口一葉、三宅花圃の紹介で、「文学」創刊号に「雪の日」を発表。同人の平田禿木の訪問を受ける。その後、筆が進まない一葉は、生活苦を打開するため、明治26年7月、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。この時の経験が、後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となる。年末に「琴の音」を文学界に発表。翌年1月、近所に同業者が開業し商売が苦しくなる。相場師になろうと占い師の久佐賀義孝に接近し借金を申し込む。明治27年5月に店を引き払い、本郷区丸山福山町(西片一丁目)に転居する。萩の舎と交渉し月2円の助教料が得られる。12月に「大つごもり」を文学界に発表する。明治28年に半井桃水から博文館の大橋乙羽を紹介される。博文館は明治20年に創業し「太陽」「文藝倶楽部」などを発刊し、春陽堂と並び出版界をリードする存在であった。大橋乙羽は作家として活動していたが、博文館の館主、大橋佐平に認められ、長女大橋ときを妻に迎えている。大橋夫妻は一葉に活躍の場を与え、経済的にも支援する。大橋ときは一葉に入門して和歌を学んだ。乙羽は明治28年3月の一葉に小説の寄稿を依頼している。この年は1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、合間に乙羽の依頼で「ゆく雲」を執筆したほか、大橋ときの依頼で「経つくえ」を書き改めた上で文藝倶楽部に再掲載した。ほか「にごりえ」「十三」などを発表する。「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間を、「奇跡の14ヶ月」と呼んだ。 明治28年4月から樋口家に馬場孤蝶や島崎藤村など文学界同人や斎藤緑雨といった文筆家などの来客が毎日訪れ、文学サロンのようになった。一葉は着るものにも困る生活であったが、来客を歓迎し、鰻や寿司を取り寄せてふるまった。明治29年、文藝倶楽部に「たけくらべ」が一括掲載されると、森鷗外や幸田露伴は同人誌「めさまし草」で一葉を高く評価した。5月には「われから」を文藝倶楽部で、「通俗書簡文」を「日用百科全書」で発表。しかし一葉は治療法が当時なかった肺結核が進行して、恢復が絶望的との診断を受けた。11月23日、丸山福山町の自宅で、24歳と6ヶ月で死去。自宅跡に、一葉終焉の地を示す石碑が建てられている。葬儀は身内だけ十数人で築地本願寺で質素に行われた。一葉の作家生活は14ヶ月余りで、死後の翌明治30年に「一葉全集」「校訂一葉全集」が刊行された。
白鬚橋、創架は1914年(大正3)、近在の人々が基金を募って「白鬚橋株式会社」を設立、大正4年に完成した木橋である。長さは130間(約230m)であった。橋に番小屋を置き、大人一人1銭の通行料を取ったが、当時は渡し舟も多く、経営は苦しかった。1925年(大正14)に東京府が買い取った。都市計画事業による現在の明治通りが隅田川を横断する箇所で、鉄橋に架換えられた。もともと「橋場の渡し」「白鬚の渡し」という渡船場があって、橋場の渡しは、江戸時代、文禄3年(1594)に千住大橋が完成して、街道筋が移されるまでは、隅田川を渡る中心地であった。伊勢物語での東下りの中で主人公(在原業平?)が有名な「言問」の歌を詠んだのは、この渡しとされる。
子育地蔵尊、文化年間(1804-1818)に隅田川堤防改修中に石造りの地蔵尊を得る。当地の植木屋、平作が、この地蔵尊の霊験に感得して、庚申塔のある辻に祀った。地蔵尊は高名となって参詣者も多く、講中も結ばれ、四の日に縁日も開かれる。堂に向って川堤に登る通りに「地蔵坂」の名をとどめる。上流の白髭神社に至る300mほどの小径は、「墨堤の道」の名残である。
鳩の街、墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。「玉の井」と近い。東京大空襲で玉の井を焼け出された銘酒屋が、1945年 (昭和20) に開業したのが始まり。終戦直後、米軍兵士の慰安施設となったが、性病に感染することが多いため、1946年(昭和21)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)となった。店舗は、警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27)には、娼家が108軒、接客する女性が298人いた。吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった。さらに、永井荷風が戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いている。久保田万太郎に構成されて「春情鳩の街より、渡り鳥いつ帰る」として、久松静児監督で映画化された。森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演した。玉の井と同様に、訪れる作家や芸能人が多く、吉行や荷風、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りした。女優、歌手の木の実ナナが生まれ育った。1958年(昭和33年)に売春防止法が施行され、すべての業者が廃業。今も裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えられ、少なくなった。
永井荷風、小石川区(文京区)出身。父、久一郎は大実業家だが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。実業家にするために渡米させるが、アメリカ駐在を経てフランスにも滞在し、フランス文学を身につけて帰国した。明治末期に師、森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊した維新以後の東京の現状を嘆き、、江戸期の戯作者的な態度を装った生涯を貫いた。
玉の井は、永井荷風の「濹東綺譚」によれば、大正7 -8年、浅草観音堂裏に言問通りが開かれるに際して、銘酒屋がこの地へ移った。当時、東京市外であった。関東大震災後、浅草で銘酒屋の再建が許可されず、亀戸と、銘酒屋営業が認められた玉の井は繁栄する。浅草から一直線に通る道路(国道6号)が開通して、昭和6年(1931)に東武伊勢崎線が開業し、浅草から玉ノ井駅(東向島駅)までのアクセスが良くなった。戦前、戦中の玉の井は、吉原のように公娼の「遊廓」ではなく、私娼の集まった私娼窟である。モグリ営業の売春宿が軒を連ねて、黙認された。
「玉の井」は、寺島村にあった字、北玉ノ井と本玉ノ井があった。昭和7年、東京市向島区寺島町となる。昭和40年、墨田区東向島、墨田となる。 ニコンZ6レンズ24-200mm 使用