フィリピン「残留日本人」終戦から80年…無国籍のまま進む高齢化 国籍回復に“壁”も【ワイド!スクランブル】(2025年1月7日)
今年で戦後80年を迎えるが、フィリピンには戦争によって日本人の親と引き裂かれ「無国籍」として生活している人たちがいる。残留日本人の今を取材した。
■戦後に待っていた「無国籍」としての人生
フィリピンの首都マニラからプロペラ機とボートで5時間。電気も整備された道路もない小さな島・リナパカン島。ここに「無国籍」としての人生を強制された日本人がいる。
モリネ・リディアさん(84)
「(Q.お父さんの名前は?)カマタ・モリネ」
「(Q.出身は?)オキナワ」
沖縄出身の父と、フィリピン人の母を持つモリネ・エスペランサさん、リディアさん姉妹。戦前、フィリピンには多くの日本人が移り住み、麻の栽培などに携わり、最盛期には3万人にも上った。
現地のフィリピン人と結婚し、家族を持つ人も多くいたという。
しかし、日米開戦と共に日本軍がアメリカの統治下にあったフィリピンに侵攻する。フィリピン人の一部は「抗日ゲリラ」となり日本兵を襲い、日本から来た民間人も憎悪の対象になっていった。
モリネ姉妹の父親は戦死、姉妹の生活は一変した。
モリネ・リディアさん
「親戚は、私に父の名字を名乗らせませんでした。もし日本人の子どもだということが知られたら殺されるから」
日本人であることを隠し生きてきたモリネ姉妹。戦争が終わるも、姉妹を待っていたのは「無国籍」としての人生だった。
当時のフィリピンでは、子どもは父親の国籍に属すると法律で定められていた。しかし、戦時中・戦後の混乱で父子関係を証明する書類などが焼け、また人目を避け離島で暮らしていたため、日本国籍の申請ができず「無国籍」の状態になってしまった残留日本人2世が大勢いたのだ。
モリネ姉妹は、日本国籍を取得したいと願い続けていた。
姉 モリネ・エスペランサさん
「(Q.どうして日本人になりたいんですか?)父が日本人だから。日本人の血が私にも流れているから」
■「日本政府は助けずに」フィリピン残留の苦悩
長年、フィリピン残留日本人の国籍回復に取り組んでいる弁護士がいる。
河合弘之弁護士
「日本名ハルコ。証拠はほとんどバッチリだよね」
河合弘之弁護士らは、フィリピンの残留日本人から集めた証拠を日本の家庭裁判所に提出し、これまで319人の国籍回復を実現してきた。
河合弁護士
「自分のアイデンティティー、国籍ってすごく大事なんですよね。『私を日本人として、祖国よ認めて』という非常に根源的な人間的な要求なんです」
戦争により海外に置き去りにされたケースとして中国残留孤児の問題もあるが、フィリピンのケースとは異なると、河合弁護士は指摘する。
河合弁護士
「中国残留孤児の場合は国策移民みたいなものだったんですけど、フィリピンの場合は完全な民間移民で。国としては救済する責任がない。日本の戦争政策の犠牲者という意味では、両方とも同じなのに扱いが全然違う」
戦後幾度も、政治の中で話題には上がるものの、一括救済などの対応はなされず、フィリピンの残留日本人は80年にもわたり放置され続けてきた。
こうした日本政府の対応をフィリピンの残留日本人は、どう思っているのか?
自らもかつては「無国籍」で残留日本人の一括救済を求める活動を続けてきた寺岡カルロスさんは、憤りをあらわにした。
寺岡カルロスさん(94)
「僕らは戦争に巻き込まれて被害者なんですよ。戦争があったからこそ巻き込まれて、大変な目にあった。それを日本政府は助けてくれなかった。何回も言ってお願いしたんだけど。捨てられた日本人なんです。忘れられてしまった。棄民です」
「無国籍」となってしまった残留日本人は、最新の調べでいまだ400人近くいるという。
■国籍回復へ…モリネ姉妹の調査
河合弁護士と共に、残留日本人の国籍回復の支援を行っているNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の猪俣典弘さん。訪れたのはモリネ姉妹の元だった。
モリネ・リディアさん
「『お父さんは顔の一部しか見えないくらいヒゲが濃かった』と母は話していました。父は漁師で船を持っていた」
幼い時に父を亡くしたモリネ姉妹にとって、母から聞いたわずかな記憶のみが頼りだ。
モリネ・リディアさん
「(Q.お父さんの名前は?)カマタ・モリネ」
「(Q.出身は?)オキナワ」
証言をもとに調査を進めると、戦前、沖縄の「盛根蒲太」という男性がフィリピンに渡ったパスポート記録が見つかった。しかし、猪俣さんによると、それだけでは不十分だという。
猪俣さん
「あとは父子関係を証明するものを彼らが準備しなくてはいけない。これが、まだ時間がかかる。我々がサポートしなくてはいけない」
モリネ姉妹の証言を裏付ける証拠を求め、猪俣さんはパスポート記録の「盛根蒲太」を追い、沖縄で調査を開始した。
まず向かったのは、本籍地に書かれていた場所だ。
猪俣さん
「この辺ですかね、地図的に」
そこは荒れ地が広がっていた。調査を進めると、県立図書館に沖縄の移民に関する資料が、データベース化されていることが分かった。
「盛根蒲太」で検索してみると盛根蒲太という人物が2度、フィリピンに渡っていたことが判明した。目的は漁業。「父親は漁師だった」という姉妹の証言と一致する。
さらに、盛根さんには弟がいて、同じくフィリピンに渡っていたことが分かった。
猪俣さん
「(盛根蒲太さんの)弟の家族が生存していて、大伯父にあたる蒲太さんがフィリピンに渡り、家族を持っていたという証言が得られれば、大きな国籍回復のひとつの証拠になる。親族の証言によって」
その後、盛根さんの弟の孫と連絡がとれ、盛根蒲太さんがフィリピンに渡り、そこで戦死したという証言を得ることができた。
そして去年9月、モリネさん姉妹の証拠が認められ国籍が回復した。
フィリピンにいる姉妹に直接話を聞いた。
モリネ・リディアさん
「(Q.お二人の日本の国籍が回復したと聞きました。今、どんなお気持ちか、教えてもらってもいいですか?)うれしくて、うれしくてたまりません。とてもうれしい。日本人として受け入れられたことに感謝します」
終戦から80年、「無国籍」として生きてくるしかなかった2人は日本に対し、どのような思いを抱いているのか?
モリネ・リディアさん
「(Q.ものすごく長い時間がかかりましたが、日本に対しては、どんな思いを抱いてきましたか?)時間はかかったけど、日本政府には大変感謝している。日本の親戚にも会ってみたい」
「(Q.会ったら、どうしたいですか?)ハグしたい。一緒に時間を過ごして、これまでに過ぎた時間の思い出を話したいです」
■無戸籍のまま…進む高齢化
フィリピン残留日本人の高齢化が進んでいて、一日も早い国籍回復が必要となっている。
フィリピン日系人リーガルサポートセンターによると、フィリピンの残留日本人は2023年3月末時点で合計3815人となっている。
その内、国籍を回復した人が1615人、無国籍のまま亡くなった人が1799人、現在、無国籍のまま残されている人が401人いる。
無国籍のまま残された人は2019年には1069人いて、4年間で668人が国籍回復叶わず亡くなっている。
フィリピンの残留日本人を長年、支援し続けてきたフィリピン日系人リーガルサポートセンターの河合弘之弁護士は「このままでは問題が解決するのではなく消滅してしまう」と、早く解決しなければと危機感をあらわにしている。
そんななか、ようやく日本政府の支援も本格化しようとしている。
去年5月、在フィリピン日本大使館の花田貴裕総領事が、モリネさんなど残留日本人を訪問。一人ずつ面談をし、一日も早い国籍回復に向けた支援を約束した。
先月19日には岩屋毅外務大臣が「残留日本人の日本への渡航は親族探しを通じて国籍回復に必要な情報を得るためにも重要な機会のひとつ。今後とも関係省庁と連携し、対策を講じる」と述べている。
ただ、国籍回復には“壁”もある。
外務省の調査・支援だけでなく出生記録などの証拠や資料が必要になるため、全員を救うには限界があるという。
国籍回復を支援してきたフィリピン日系人リーガルサポートセンター事務局長の石井恭子さんは「出生記録や両親の婚姻記録など資料がまったく残っていない人も多く、支援の限界がきている。日本国籍を希望する人には一括救済という形で国籍を認めるなど政府には政治的な決断をしてほしい」と願っている。
(「大下容子ワイド!スクランブル」2025年1月7日放送分より)
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