【報ステ特集】「死んだんじゃない殺された」記憶が歴史になる前に…東京大空襲80年【報道ステーション】(2025年3月10日)
第二次世界大戦の終結から今年で80年。3月10日は東京大空襲により10万人近くが命を落とした日です。木造住宅が密集する下町はほとんどが焼き尽くされてしまいました。その後、開発が進んだ東京。それでも都内には今も空襲の痕跡をとどめる所があります。わずかに残るあの日の『戦災遺構』が語りかけてくることとは。
■東京大空襲 炎の痕跡が今も
当時の痕跡が残る江戸川区役所旧文書庫。
下村彩里アナウンサー
「一面が焼け焦げてる。この中まで炎に覆われたということがよく分かります。壁が焼けただれたようにも見えます」
80年の時を経て、こうした建物はほとんど残っていません。街の片隅にひっそりと残る炎の痕跡。黒く焦げた痕に目を向ける人はいません。
日本各地を狙ったアメリカ軍の空襲で猛威を振るったのは、火災を起こす焼夷弾。東京大空襲では27万戸の建物が燃え、一夜にして10万人近くが亡くなっています。木造家屋が密集する“下町”が狙われ、焼き尽くされました。
■記憶留める“遺構”
深川で永く愛されてきた清澄庭園。80年前の10日、ここに炎に追われた人々が殺到しました。兄弟と一緒に逃げ込んだ村岡信明さん(93)は当時13歳でした。
村岡信明さん
「淵は全部、人でいっぱいでした」
(Q.池にみんな集まって)
「そうです。水がなければ熱くて庭園にもいられなかった。全部火の海になった。炎に包まれて。もう少し続いていたら死んでいた。1秒2秒の差。生と死というのは」
深川一帯は全焼し、当時の炎の跡は寺の墓石などに残るだけです。
村岡信明さん
「はがれているのは石が焼けた特徴。だから全部焼けている」
多くの人が亡くなったのに全く痕跡が残っていない場所も。夜が明けて避難した小学校です。村岡さんが目にした光景を伝えようと描いた絵『ホロコースト、東京大空襲』。縦に引かれた赤い線は、生死を分けた扉です。
村岡信明さん
「火が入ってくるから閉めてしまった、鉄の扉を。後から来た人は入れない。『開けろ開けろ』『開けるな開けるな』両方から鉄の扉を押し合い。中の人は助かった。外の人はみんな焼け死んだ。人間の焼けた脂がドローッとなる。いくら洗っても取れない。人間の脂」
80年を経た街で今思うこと。
村岡信明さん
「当時の生き残った人間が歩いてここまで来て立っているのは嘘みたい。平和ですね。死んだんじゃない。みんな殺された。東京大空襲で」
■“遺構”を残す思い
時の流れの中で忘れられ、消えつつある空襲の痕跡。何とか後世に残そうとする取り組みも始まっています。
老朽化のため解体が決まっていた墨田区の賛育会病院旧本館、その最上階。一面、真っ黒な煤に覆われた部屋は産院の一室でした。解体工事の直前、東京大空襲の痕跡を留めていると分かり、急きょ天井などの一部が保存されることになりました。
しかし、こうしたケースはまれで、人知れず消えていくものがほとんどです。あの日を生き延びた濱田嘉一さん(87)は、危機感から保存活動を始めました。
『深川の八幡さま』と親しまれる富岡八幡宮。その奥には壊れた鳥居があります。
濱田嘉一さん
「直撃。焼夷弾。それで壊れた。上からドーンと落ちた。この辺に焼夷弾の薬莢がいくつか転がっていた」
ここにも空襲の被害が残っていることを知ってもらうため、濱田さんは看板を自費で設置しました。
濱田嘉一さん
「東京大空襲のシンボルって何もない。小さなものでもいいから空襲を後世に伝えていく。それが大事だろうと」
■“遺構”が鳴らす警鐘
「二度と起こってはならない戦争の痕跡」戦災遺構の保存は次世代へ鳴らす警鐘です。
濱田嘉一さん
「来て見た人が『戦争ってあったんだ』『10万人もの人が死んでいるんだ』と一人一人に知ってもらうことが大事。世の中がもっとおかしくなって戦前のような動きになった時に、これがあるおかげで『戦争はいけない』という人が必ず出てくることを期待」
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