撮影日 2024年11月 宮城県
JR気仙沼線の後面展望となります。
以下Wikipediaよりhttps(2025年1月07日現在)
気仙沼線(けせんぬません)は、宮城県石巻市の前谷地駅から同県登米市の柳津駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。
概要
かつては前谷地駅から気仙沼市の気仙沼駅までを結んでいた路線で、陸前戸倉駅 - 気仙沼駅間では大船渡線の一部区間・八戸線・三陸鉄道とともに三陸海岸沿岸を走行していた。
2011年(平成23年)3月に発生した東日本大震災により、沿岸部を走行する柳津駅 - 気仙沼駅間が大きな被害を受け不通となった。同区間では「気仙沼線BRT」として2012年(平成24年)8月20日よりバス・ラピッド・トランジット (BRT) の暫定運行を開始し、同年12月22日から本格運行に移行した。2019年(令和元年)11月12日には不通区間の鉄道事業の廃止届が国土交通省東北運輸局に提出され、2020年(令和2年)4月1日に廃止された[。
鉄道として現存するのは1968年(昭和43年)に開通した旧北上川に沿う区間(旧:柳津線)であり、長距離の広域交通としての役割は並走するBRTに移行しているため、地域輸送が主体となっている。
歴史
三陸地方沿岸に鉄道を敷設する構想が生まれたのは、1896年(明治29年)である。この年の6月に明治三陸地震が起こり、大津波によって死者が2万人以上に達するなど三陸地方沿岸は大きく被災した。この時に災害復旧の一環としてこの地域に鉄道を敷設する構想が生まれたが、具体的には進展しなかった。またこれとは別に、川村朝次郎等、東京周辺の財界人有志が三陸鉄道株式会社を立ち上げ、石巻を起点に志津川、気仙沼、釜石、宮古を結ぶ鉄道の建設を目指したが、これも実現せずに終わった。
1912年(大正元年)、鉄道院の技手大谷外輔等、調査員の一団が東北地方の鉄道予定線を測量に訪れた。この時、宮城県北東部にも立ち寄り複数の経路を調査した。この調査で、最短距離で鉄道を敷設すると難工事になり、鉄道を敷設しやすい場所を選定すると距離が延びるという課題が浮かび上がったという。1917年(大正6年)には本吉郡の町村長達が本吉郡を縦断する軽便鉄道の実現を宮城県知事に請願し、また、同じ年に宮城県会議長の鈴木俊輔が時の内務大臣後藤新平に三陸沿岸における鉄道を実現するよう意見書を提出した。志津川町長から宮城県会議員を経て衆議院議員になった高橋長七郎は本吉郡への鉄道実現に熱心であり、1922年(大正11年)に「宮城県気仙沼ヨリ津谷、志津川ヲ経テ前谷地ニ至ル鉄道及津谷ヨリ分岐シ佐沼ヲ経テ田尻ニ至ル鉄道」の鉄道敷設法別表への記載が実現した。これを受けて、本吉郡の町村長や桃生郡、牡鹿郡の有志が「三陸鉄道即成同盟会」を結成して鉄道実現へ向けて活動する事になったが、実際には鉄道がすぐに実現するというものでもなかった。
1933年(昭和8年)3月、昭和三陸地震が発生し、三陸地方沿岸はまたも大津波に襲われた。この時に、災害復旧の一環として再び鉄道の建設に焦点が当たったが、鉄道敷設法では本吉から前谷地に至る経路と田尻に至る経路の二つが記されており、これが問題となった。鉄道省内部で田尻ルートが有力視されているという話があり、佐沼町などの内陸町村はこれを歓迎して鉄道誘致運動を始め、一方で志津川町などの沿岸町村はこれに反発して「三陸沿岸鉄道即成同盟会」を結成し対抗した。最終的には政府が、三陸沿岸開発という根本的な目的から前谷地ルートが国策上有利であるという見解を表して、この問題は決着した。
1935年(昭和10年)、鉄道省は気仙沼から前谷地に至る鉄道路線の建設を翌年から着手することに決めた。しかし1936年(昭和11年)、着工を目前にした時期に再びルート問題がにわかに降って湧いた。石巻町とその周辺町村が、三陸鉄道の起点としてふさわしいのは石巻であるとして、鉄道ルートの変更を求めたのだった。鉄道省はこれを取り上げなかったが、この石巻町の三陸鉄道誘致運動は後年までくすぶり続けた。気仙沼線の工事は予算714万2000円をもって気仙沼から南へ向けて進められたが、1937年(昭和12年)日中戦争の勃発によって工事は中断し、1939年(昭和14年)に再開するも、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に再び中断した。戦時中まで工事が行われていたのは、大谷鉱山の地下資源を気仙沼線で輸送することが考えられていたためと推測されている。
終戦後の1946年(昭和21年)、本吉郡4町13村と登米郡および桃生郡の関係町村は「三陸鉄道促進期成同盟会」を結成し、鉄道工事の再開を求めて請願や陳情を始めた。しかし、戦後すぐのこの時期は既成線の復旧が急務とされていた。1952年(昭和27年)にBクラス着工線として気仙沼線に追加補正予算が当てられ、1953年(昭和28年)に工事が再開された。当面は気仙沼から本吉までの部分開業とされ、1955年(昭和30年)の完成を目標に工事が進められたが、この予定は遅れることになった。1956年(昭和31年)に旅客線の開業に先立って気仙沼から気仙沼港までの貨物線が開通し、この年の末に本吉までの線路が完成した。1957年(昭和32年)1月から試運転の機関車が走り始め、同年2月11日に気仙沼線は部分的にではあるが開通を迎えた。この区間にかかった総工費は約8億700万円であり、ここを1日6往復の旅客列車が走った。
部分開業後の4月、本吉から前谷地までの残りの区間が調査線に編入された。1959年(昭和34年)に鉄道建設審議会はこの区間の着工を承認したものの、大都市圏での鉄道建設が優先され、すぐには予算が付かなかった。1962年(昭和37年)に前谷地で杭打式が行われ、ここから本吉に向けて路盤工事が進められることとなり、1964年(昭和39年)からは新たに発足した日本鉄道建設公団が国鉄から承継して工事を担うこととなった。しかしこの工事が行われている最中の1968年(昭和43年)6月、国鉄諮問委員会は国鉄の赤字線83線約2500キロメートルを廃止する計画案を提出した。赤字路線は即時廃止と順次廃止の二つに分けられていて、気仙沼線が即時廃止路線に含まれていた。これは沿線の町や住人に衝撃を与えた。このような状況な中で、同年10月24日に前谷地 - 柳津間が柳津線と名付けられて部分開業した[12]。この区間の総工費は約23億2400万円だった。
その後、柳津から本吉までの区間は小刻みながら工事が続けられた。この区間はリアス式海岸の急峻な地形に線路を通す必要があり、橋梁とトンネルがこの区間の64パーセントを占め、その中でも横山 - 戸倉間の横山トンネルは総延長3508メートルという気仙沼線の中で最長のトンネルだった。これらの難工事に時間を取られながら、総工費約177億円をもって1977年(昭和52年)に柳津 - 本吉間が完成した。10月から試運転列車が走るようになり、12月11日に気仙沼線は全線開通した。この前年の1976年(昭和51年)に国鉄総裁に就任した高木文雄は、大赤字確実な路線の引き取りを拒否する意向を示していた。気仙沼線が全線開業した1977年(昭和52年)の時点で開業寸前の状態だった九州の油須原線は高木の意向で鉄道公団からの受け取りを拒否され、結果として気仙沼線の柳津 - 本吉間は国鉄が開業した最後の地方交通線となった。
当初の計画では気仙沼線全線開通時に急行列車2往復を含む7往復の列車が運転される予定だった。実際には、気仙沼 - 本吉間の区間運転列車を含めて、上り6本、下り7本の普通列車が設定された。この内、上りの1本が石巻行きであり、上下1往復が仙台直通だった。国鉄は気仙沼線の営業係数を677と事前に予測していたが、気仙沼線の利用者は少なくなく、中でも仙台直通列車は後に1両増結の措置が取られるほど混雑した。ただ、仙台直通列車は東北本線内快速、石巻線内でも上涌谷駅は通過だったが、これでも気仙沼 - 仙台間の所要時間は大船渡線経由の急行列車「むろね」と大差なかった。JR東日本発足後には気仙沼線で快速「南三陸」が運行されるようになる。
この頃、国鉄の経営は逼迫しており、1980年(昭和55年)末に政府は国鉄の経営再建を目的とする国鉄再建法を発布した。この内容には赤字路線(特定地方交通線)の廃止も含まれており、1981年(昭和56年)になると、1日4000人未満という利用者数が廃止基準として政令で定められた。これには、ラッシュ時に1000人以上の利用者がいる、代替道路が未整備である、積雪等で年間10日以上交通が不通になる、利用者の平均乗車距離が30キロメートル以上かつ1日の利用者が1000人を超える、といった特殊な環境の路線は除くという条件が付帯していた。気仙沼線の利用者数は1日4000人未満だったが、利用者の平均乗車距離が30キロメートル以上かつ1日の利用者が1000人を超える、に該当した事から廃止路線から除外されることになった。
運行形態
全列車が各駅停車となっている。前谷地駅 - 柳津駅間では1日9往復の列車が設定されており、うち下り3本・上り4本は石巻線に乗り入れ、小牛田駅発着で運行される。日中は概ね2 - 3時間毎の運行頻度となっている。全列車が1両編成のワンマン運転となっている。
また、前谷地駅 - 柳津駅間ではBRTが鉄道と並行して5往復運行されており(途中駅はノンストップ)、列車のない時間帯を補完している。ただしBRTで利用可能な「odeca」や「Suica」などのICカードは、同区間の鉄道では利用できない。また前谷地駅(石巻線)・柳津駅ともに、列車とBRTは接続を考慮したダイヤとはなっていない。
なお、鉄道とBRTを連続して利用する場合、運賃はそれぞれの合算となる(柳津駅でキロ数計算が打ち切られる)が、前谷地駅 - 柳津駅間でBRTに乗車する場合、同区間では鉄道の運賃が通算される。
東日本大震災発生前は、全区間直通の運行形態が基本で、一部に本吉駅 - 気仙沼駅間の区間列車があり、朝の上り1本は気仙沼発女川行きであった。また、仙台と気仙沼を結ぶ快速「南三陸」が2往復運転され、このうち1往復は2001年(平成13年)11月30日まで気仙沼駅より大船渡線の盛駅まで直通運転が実施されていたが、震災前の時点では全列車が気仙沼駅発着となっていた。
廃止区間の柳津駅 - 気仙沼駅間は、震災前は列車は10本程度の運転本数となっていたが、BRTに転換されてからは大幅に増発されている。