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KATO C57 急行大和

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この動画では、1964年(昭和39年)10月頃の上り急行「大和」の関西本線王子⇒亀山間を走る姿を再現しました。  同区間の牽引機はC571次形、客車は①ナハネフ10、②ナハネフ10、③オロネ10、④オハネ17、⑤オハネ17、⑥ナハネフ10でした。なお、当鉄道にはナハネフ10は在籍していないため①②はナハネ10、⑥はナハネ11で代用、また緩急車として⑦スハフ42を連結してあります。(実車の編成と異なりますのでご注意ください。)  ①は和歌山市~東京間、②~⑥は湊町~東京間で、亀山で後ろに鳥羽からの6両、名古屋で前に3両の客車を連結し、EF58が堂々15両編成をけん引して東海道本線を走っていました。  急行「大和」は、東京~湊町(現JR難波)行きの夜行急行列車でした。1949年9月に準急列車として東京~名古屋間で運転を開始した列車がルーツです。1950年10月に急行列車化とともに運転区間も東京~湊町・鳥羽間に延長され、同年11月に列車名が付与された。  利用客の増加により、1954年10月に鳥羽駅発着編成の連結が中止され、寝台車も連結されるようになりました。1962年3月からは二等寝台車が1両連結され、王寺駅で増解結を行って和歌山線の普通列車と併結運転することにより、東京~和歌山市間でも運転されるようになりました。  1964年10月に東海道新幹線が開業したことにより、下りが東京~名古屋間で「伊勢」、上りが奈良~東京間で「南紀観光」、1965年10月からは「伊勢」「南紀観光」に代わって東京~名古屋間で「能登」と併結運転されるようになり、1968年10月に「紀伊」に統合されて独立した列車としては廃止されました。1972年3月、「紀伊」の編成としても廃止され、完全廃止となりました。  国鉄C57形蒸気機関車は、国鉄の旅客用テンダー式蒸気機関車(SL)です。2021年現在も「SLやまぐち号」(1号機)や「SLばんえつ物語」(180号機)の運転に使用されており、細身のボイラーを持つことから「貴婦人(きふじん)」の愛称で呼ばれました。鉄道ファン等からは「シゴナナ」と呼ばれています。  観光列車やイベントを除いて、日本で最後の旅客営業運転をおこなったSLでもあります(1975年12月14日、北海道の室蘭本線室蘭駅発岩見沢駅行き)。  1937年(昭和12年)、C55形の63号機として製造が始められた機関車でしたが、改良箇所が多岐に及んだため、検討の末に新形式とすることが決定され、C57形蒸気機関車として誕生しました。1947年(昭和22年)までの間に201両が量産されました。本形式への信頼は高く、C51形に始まるライトパシフィック機の決定版となりました。  C55形との主な相違点はボイラー使用圧力の上昇(14kg/cm2→16kg/cm2)と、それにともなうシリンダ直径の縮小(510mm→500mm)、スポーク動輪からボックス動輪への変更などです。ボイラー使用圧力が上昇したことにより、C55形よりも石炭・水消費量の減少や出力上昇など性能が向上し、これが新形式を与える決め手になったとも言われています。C55形とC57形は共通運用となる場合も多かったですが、線形や列車条件によっては混運用ができない場合もありました。 基本設計を固めるに際し、設計陣からは軸重を15tとしてボイラーをひと回り大きくする案も出ていましたが、使用者側は広域運用ができるほうが望ましいとしたため、ボイラーはC51と同等になりました。 動輪以外での形態的な変化は、煙室前端部の曲面化、蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化、エプロンの傾斜角変更が目立つところです。なお、C57形でもC57 110のように事故や腐食などの修繕や更新で、煙室前端部がC55形のように平面化されたものが数両存在します。  製造時期により、形態が若干異なっています。戦後に製造されたもののうち、特に第4次形と呼ばれるタイプは運転室が密閉型となるなど、C59形に準ずるスタイルになっており、戦前から戦中に製造されたものとは、寸法や重量が若干異ります。  戦後に製造された3次形と4次形の中には、技術力、品質管理能力の低下により、ボイラーの性能が悪いものがあり、該当車両は一時期使用圧力を下げて運用されるなどの不便を招いていました。このため、1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)にかけて、本形式のうち57両のボイラーが新造品に載せ替えられています。なお、ボイラー取り替え対象車両の中には、上記以外にX線検査の結果不備が見つかった戦前製のものも含まれています。現在は動態保存中のC57 1も1958年(昭和33年)にボイラーの載せ替えが実施されました。  鉄道省向けには、川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により、計201両が製造されたほか、台湾総督府鉄道およびその後身である台湾鉄路管理局向けに14両が製造されました。  本形式は四国を除く全国各地で優等旅客列車の牽引を中心に使用されました。  特に軸重制限からC53形やC59形などの大型旅客用蒸気機関車が入線できなかった熊本以南の鹿児島本線や長崎本線では、1942年に関門トンネル開通で長崎まで延長運転された特急「富士」(戦局の悪化等の理由で翌年博多発着とされ、1944年3月に廃止)や戦後の特急「かもめ」「さちかぜ」「平和」「さくら」に代表される優等列車の牽引にも充当されました。  また、北陸本線(今庄~直江津間)、信越本線の“海線”区間(直江津~柏崎~長岡~ 新津~新潟駅間)、羽越本線(新潟~新発田間の白新線を含む)などのような全国各地の地方幹線でも、急行などの優等列車を牽引しました。  北海道でも、戦後の1960年代中頃までは小樽築港機関区所属機や釧路機関区所属機が、小樽~札幌~滝川~富良野~帯広~釧路を、函館本線 - 根室本線経由でロングラン運用されるなどして活躍しました。また、宗谷本線でも、蒸気機関車時代の晩年には、それまで同線の旅客列車の牽引で活躍していた旭川機関区配置のC55形の老朽化が進んだことから、その置き換えとなるDD51形ディーゼル機関車の両数が揃うまでの間、本州や九州などから3両の本形式が転属し、DD51形の増備が進んだ1974年12月8日まで運用され、翌1975年2月に廃車となりました。  性能・保守面の良さを買われて長く活躍し、国鉄の旅客用蒸気機関車の代名詞となりました。全長に比べてボイラが細く見え、スタイルが美しいとの理由で「貴婦人」の愛称で親しまれました。1953年にはC57 126がそれまで東京鉄道管理局のお召し列車専用機であったC51 239に替わって就役しているなど、各地で無煙化になるまでの間お召列車の牽引実績を残すなど、平坦線を中心に運転·保守両サイドから使い勝手が良いと高く評価され、戦後、老朽化が目立ち始めたC51の代替としてC57の早期転入を求める声が多く上がったほか、昭和35年頃、輸送力強化とC51の淘汰促進のため、電化で余剰になったC59を改造したC60が配属される管理局や機関区では、C57を手離すことを渋る声が上がりました。  昭和30年代以降、特急・急行列車の無煙化が進むと普通列車の牽引に回りましたが、大半が蒸気機関車の最終期まで残り運用されました。晩年になってもディーゼル機関車の不調や両数不足などで急行列車牽引の機会があり、寝台特急の牽引事例もありました。また、日豊本線や播但線、千歳線などでは、貨物列車の定期運用もありました(千歳線では、主に重量貨物列車の補機として使用)。  本州の東日本地区において最後まで本形式が運用されていた羽越本線では、1960年代前半に定期急行牽引任務からは外れたものの、1972年10月のダイヤ改正時に電化が完成するまでは、大阪~青森間の臨時急行「きたぐに51号」の新潟~秋田間(白新線経由)を牽引(1968年10月のダイヤ改正時=いわゆる“ヨン・サン・トオ”から1972年9月末日まで)するなど、普通列車を中心に、臨時急行列車や荷物列車などの牽引機として活躍しました(ただし、羽越本線での普通列車と荷物列車の牽引については、同線の電化開業半年前の同年3月のダイヤ改正時までに、全てD51形、またはDD51形に置き換えられています)。  1972年(昭和47年)10月14日・15日に鉄道開通100年を記念して汐留~東横浜間に運転された「鉄道100年記念号」の牽引には、当時紀勢本線で稼働中の7号機が上京してその任にあたりました。同機は和歌山県で現在も静態保存されています。  運用後期でもお召し列車に用いられ、1972年5月の新潟植樹祭の際に、当時新津機関区所属のC57 1が羽越本線の新津~村上間で牽引したほか、1973年(昭和48年)4月に第24回全国植樹祭が宮崎県にて催された際に日豊本線におけるC57 117が牽引するお召列車が4月9日に西都城~宮崎間、10日に高鍋~宮崎、12日に宮崎~延岡間にて運行されました。この一連のお召列車運行は、日本国内における蒸気機関車牽引による最後のお召し列車運行となりました。  日豊本線では、晩年の延岡以南における優等列車の牽引はDF50形ディーゼル機関車に置き換えられていましたが、DF50形が故障し予備機のやりくりがつかなくなった場合など、車両運用の都合上で突発的に急行列車や時には寝台特急「富士」「彗星」を牽引することもあり、一例として1973年5月9日の上り寝台特急「彗星」を本形式が重連(前位機は66号機)で牽引しました、これは国鉄線内で蒸気機関車が定期特急列車を牽引した最後の事例とされています。1973年(昭和48年)10月から、日豊本線の急行列車、下り「日南3号」の宮崎~都城間の牽引に使用されました。この列車はすでにDF50形ディーゼル機関車に置き換えられていましたが、寝台特急の増発による車両運用の都合上、再びC57形が使用されることとなりました。この運用は翌年1974年(昭和49年)3月まで続き、これが国鉄で蒸気機関車が牽引する優等列車としては最後のものとなりました。  1975年(昭和50年)、NHKは当時の人気アイドルであった歌手の山口百恵と漫画家の加藤芳郎が出演する、蒸気機関車を扱った特別番組を制作しました。このロケのため運転された列車には岩見沢第一機関区に所属していたC57 135が使用され、10月20日午前11時4分の室蘭駅発岩見沢駅の普通列車を牽引した。その年の12月8日に同じ区間を走った国鉄D51形蒸気機関車がSLの最終運行となるはずだったが、国鉄本社がセレモニー付きのSLラストランを行うよう指示。 そのC57 135が再び室蘭~岩見沢で国鉄最後の蒸機牽引旅客列車となる225列車を牽引しました。同列車は本来はD51形を使用することになっており、最終日の12月14日のみ特別措置としてC57形牽引となりました。

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