MACF礼拝説教要旨
2025年2月16日
「イエス様の謙卑」
フィリピの信徒への手紙2章5節〜
5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に
ひざまずき、
11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
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1)互いにこのことを心がける
それは前の節に書かれている言葉が鍵になります。
3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
利己心、虚栄心からではなく、謙遜に他者への祝福を考慮に入れながら生きるという姿勢です。
2)キリストの生き方
まさに、それがキリストの生き方そのものだったのだとパウロは
力説します。
こう書いてありますね。
6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
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私たちはこの文章を読むと単純に、私たちの罪を担って十字架にかけられた苦難のイエス様を連想します。
しかし、そこにある意味での落とし穴があるように感じます。というのはイエス様の犠牲や苦難は「十字架」というポイントだけではなく生き方そのもの、存在そのものが、まったく当然とは言えない状況に身を置いたからです。
「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」
本来このお方は神の御子ですから、その主張をどこで表明してもよかったのです。
しかし、彼はそれをしませんでした。
むしろ、僕の身分となりました。つまり、親から切り離され、あるいは親を切り離した
罪あるものの一人として神の前に立つことになったのです。
それがこの文に表明されています。
「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 」
話がちょっと横にそれますが、私は最近ヘンリ・ナウエンの書いた「放蕩息子の帰郷」
という本を何度か読み返して、本当にいろいろな示唆を受けています。
その本はオランダの画家レンブラントの描いた「放蕩息子の帰郷」という絵画を
土台にルカによる福音書にある放蕩息子の話を中心に書かれた優れた著作です。
その本に「あの絵の中に描かれている帰郷した放蕩三昧し身を持ち崩した弟息子」は
確かに父を見捨ててと奥の国に旅立ち、落ちぶれて戻ってきた弟に違いないのだけれど、
よくよく考えてみれば、あれは、私たちのために神であることに固執せず
人として、僕としてこられ、罪あるものの代表者として神の前に立つキリストの姿でも
あるのではないかというヒントが書かれていたのです。
もし、あの弟の姿の中に「あなたの身代わりになり切ったキリスト」をみることができたら、十字架の苦しみだけでない、いわゆる「血の通った形でのキリストの愛」をみることができるのかもしれません。
恥も外聞も捨てて、罪ある私と連帯し、あの絵の中にある父の前にひざまずく弟息子のみじめさ、悲しさが、わたしのために父の下に懇願するイエス様の姿だとしたら私は心が痛み、主イエス様、お赦しくださいと懇願せずにはいられない気持ちになります。
今日はその絵を一緒に紹介し、その絵の中に見えてくるものをゆっくり鑑賞し感じ取っていただきたいと思います。以下の聖句を心に留めながら・・・
6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
神の計画の不思議さ、愛の深さ、赦しの恵みの偉大さ、そして「イエス様の連帯」心に留めたいと思います。