MENU

Fun & Interesting

No.671_城跡巡り 大野田城址(愛知県新城市)

ライ 232 1 week ago
Video Not Working? Fix It Now

2025年1月3日(金) 大野田城(おおのだじょう) 所 在:愛知県新城市野田幹徳 34.8835613, 137.4765567 駐車場:大野田城跡駐車場 34.8833789, 137.4772437 別 名:新城今城、中市場村古城 ⚫︎大野田城は始め、健武の新政(1333年)の頃に冨永氏の出城として築城され、応永年間(1394-1427)の頃は城所浄古斎の砦として利用された。  永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討死すると野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、義元の子 今川氏真は翌年、怒って菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、永禄5年再度野田城を奪い返した。  この戦いで大破した野田城の修復のため、定盈は浄古斎の旧砦を利用して本丸とし、さらに二の丸・三の丸を北側に拡大して、その名も大野田城としたと伝えられる。元亀2年(1571)、武田信玄は足助城を陥れ、作手からこの地を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷へ退却し廃城となった。  明治の終わり頃、本丸を切り崩して農業用のため池としてこの中市場池は造られたが、現在も本丸の土塁や堀跡の一部が残されている。 (現地案内板より) ⚫︎天文元年に菅沼大善亮定継が構えたが、その後の城主としては奥平美作守信昌の名がみえる。この城をめぐる戦いとしては元亀2年(1571)の武田軍の攻城が知られている。この時は菅沼定盈が守っていたが、結局は落城し、以降廃城となった。  野田城から東に1kmほどの位置にあり、豊川の北方100mの台地の先端にある。遺構は南北約30m、東西50mほどの単一曲輪で、台地に続く地点に長さ60m、幅員約5mの堀を備え、その堀の東側の先端は池に続き、西は沢に入っている。台地の先端にありながら、いわば離島のような形態となっている。 (日本城郭大系9 241ページ) ⚫︎大野田城は、新城今城ともいった。豊川の北方約一町のところにあり、現在は樹木鬱蒼たる森林となってしまって、中央に空堀が残っている。南北およそ一町、東西四十間内外で、南部と西方に城塁があり、東方に池がある。池のはしに五輪塔と不動尊が祀ってある。天文年間に菅沼大善亮定継が築城。その後、奥平美作守信昌が襲ったが、まもなく廃城となった。それから天正2年に菅沼定盈がこの城を修築して居城したが、武田軍に攻められ防戦利あらず八名郡へ退却、またも廃城となった。そして天正4年に水野弾正忠が再建して、これを居城としたという。 (日本城郭全集7 61ページより) まとめ 大野田城は、西に1kmほどの位置にある野田城を修復するための一時避難先として菅沼定盈が築いた城である。 ここには浄古斎の砦があったため、その砦跡を本丸とし、さらに二の丸・三の丸を拡大しています。 元亀2年(1571)、武田信玄に攻められ廃城となりました。

Comment