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No.672_城跡巡り 亀山城址(愛知県新城市)

ライ 346 2 weeks ago
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2025年1月4日(土) 亀山城(かめやまじょう) 所 在:愛知県新城市作手清岳大バロ 34.9638963, 137.4233641 駐車場:道の駅 つくで手作り村 第二駐車場 34.9629193, 137.4226549 別 名:作手城 ⚫︎奥平氏の祖は、上野国甘楽郡岩井村奥平郷に居住した秩父氏の一族児玉氏という。奥平氏が最初に城を構えたのは同村川尻で、今もその遺構が残る。川尻の城は小規模なもので、奥平氏の勢力が伸長するにしたがい、貞俊の代に手狭な川尻城から清岳の地に移ったものと思われる。奥三河の山村において、慶長末期まで城主の存在した城はめずらしく、現在、城址は比高20m、東西60m、南北150mほどで、本郭は東西27m、南北90mの楕円形をなし、周囲に土塁を巡らし、南東に空堀に続く虎口、北側にもこの曲輪に接する虎口を設けている。 (日本城郭大系9 238ページ) ⚫︎亀山城は、平山城という感じのする城である。山城というには少し平面的であり、平城にしては少し立体的である。本丸と思われるところに、「亀山城跡」と刻んだ石碑が立っている。本丸の幅は約6メートル、長さは30メートルの楕円形で、その外側を土塁が囲んでいるが、その東側と西側の二ヵ所に切れ目がある。そしてやや北西によった低いところと、北東によった同じく低いところに、食糧庫か武器庫が建っていたらしい。そして本丸の北側は急な斜面で、30メートルくらいの崖になっているから、敵は登ってこられない。元来この城は古宮城を敵と見てつくられていたものだから、大手門は城の西側にあればよいはずなのに、西側にはそれらしいものがない。しかし本丸と二の丸、郭は古宮城と向かいあっているから堅固にできていた。それからこの城の一番かわっているところは井戸のないことで、どんな小さな城でも本丸、二の丸、三の丸には井戸がかならずあるのに、ここだけないのは、城から北東の方に姫屋敷というのがあって、そこに深さ3メートル、直径1メートルばかりの井戸があったからで、これを姫井戸と土地の人々は呼んでいる。ここで亀姫がほんとうに暮らしたかどうかわからぬが、この姫屋敷は亀山城の出城の様な感じで、堀も古宮城の方向に向かって掘られてあった。だから少し手を加えると、立派な古宮城と対戦できたわけである。  この城は奥平氏の居城で、奥平氏は村上天皇の皇子具平親王の後裔といわれ、上野国奥平の郷を領していたので奥平と称したというが、一説には上野国甘楽郡司の畠山小幡右衛門尉政行の子、太郎行綱に養われていた赤松則景の次男氏行で、小幡田郎右衛門尉と称して上野国にいたのが、新田氏が没落すると奥平八郎左衛門貞俊となり、作手の処士山崎三郎左衛門某をたよってこの地に来たというのである。いずれにしても家柄については、はっきりしたことはわからない。作手で勢力を伸ばし近隣の豪族を平らげて亀山城を築いたと考えられる。二代の奥平貞久も着々と地盤を固め、宝飯郡の佐脇城主生田某を服従させたりした。そして三代の貞昌の頃から今川氏と関係ができた。しかしその子の貞勝は松平清康に従い、享禄3年(1530)には宇利城攻略に戦功をあげている。また永禄2年(1559)には松平元康が主君今川義元のために、尾張国大高城に兵糧を納めたとき、貞勝もそれに従ったという。戦国時代の小領主の右顧左眄ぶりがよくあらわれている。貞勝もどのようにして世を渡ればよいかと松平清康の生存中は彼に従ったが、彼が死すると今川に属し、弘治2年(1556)には織田に従って今川方の菅沼新八郎定則に敗け、また今川に属したが、永禄8年(1565)には徳川に従い、元亀元年(1570)には武田に従っている。このとき貞勝の子貞能、孫信昌はこっそり徳川方に味方した。元亀2年(1571)の戦い後、貞勝は隠居した。貞能は母方の血を引いたか、彼の生涯は実に波乱の多いものであった。その子の信昌もまた父におとらず先見の明があったか、戦国をうまく泳ぎきり、姉川の役では父貞能とともに出陣して殊勲をたてた。のち家康の娘亀姫をもらって妻とした。 (日本城郭全集7 87ページより) ⚫︎亀山城は、応永31年(1424年)に奥平貞俊によって築城された。貞俊は、天授年間(1375年~1380年)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされている。その子孫は、この地で支配者としての地位を確立し、後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となった。16世紀になると、今川氏、松平氏、織田氏といった武将の配下を転々としながら、天正3年(1575年)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いでの功績により、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。 存続期間については、応永年間から城主が長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7年(1602年)~15年(1610)年に奥平信昌の四男 松平忠明が城主となっている2時期が知られている。 https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/meisyo/kameyamajyoato.html (新城市ホームページより)

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