2025年4月22日(火)
伊坂城(いさかじょう)
所 在:三重県四日市市伊坂町
35.0402927, 136.6227988
駐車場:伊坂ダムサイクルパーク駐車場
35.0401936, 136.6206631
登城口:35.0408038, 136.6226456
別 名:なし
⚫︎伊坂城は、東西650m、南北130mに及ぶ戦国時代の山城で、伊勢湾や知多半島の眺めが大変すばらしい標高83mの丘陵の上にあります。朝明川沿いには他にも多くの山城がつくられ、現在でも土塁や堀が残っているものがあります。
伊坂城の城主が伊坂氏であるかははっきりとしていません。享徳2年(1453)に、伊坂氏の名前を文献に見ることができます。その後の戦乱のさなか、織田信長の一代記である『信長公記』には、天正元年(1573)の記事に「いさか」と書かれています。さらに二男信雄が北伊勢を治めていたころには、多数の伊坂一族の名前が『織田信雄分限帳』に見られます。
高速道路建設に伴う伊坂城跡の発掘調査の結果、山城として大変防御性の高い造りであり、同じ丘陵の東方には屋敷地も広がっていたことがわかりました。
特に、本丸にあたる曲輪で見つかった門の礎石から、戦国時代の城としては全国的にきわめて稀な大規模な櫓門があったと考えられ、大変重要な発見となりました。
(現地案内板より)
⚫︎伊坂城は、萱生城と朝明川を隔てた標高80mの丘陵上にある。『勢陽五鈴遺響』には、萱生城主の一族である春日部太郎左衛門尉がここに城を築いたとあり、永禄11年(1568)、萱生城と共に織田信長に滅ぼされたとなっている。
城は、南東方向に延びる半島状の丘陵につくられ、南側と北側には谷が大きく入り込んでいる。最高部には、土塁に囲まれた60m×50mの主郭がある。南側土塁が低く部分的であるのに対し、東側土塁は広く高い。主郭の下、南から東にかけてさ一段低い帯郭が、また、西側土塁下には、10m×15mほどの削平地が八ヶ所つくられている。
(日本城郭大系10 76ページ)
⚫︎伊坂城は、伊坂字古屋敷にあり、春日部太郎右衛門の居城で、太郎右衛門は、萱生城主の一族で天正元年(1573)織田軍に攻撃され降服し、廃城となった。(日本城郭全集8 24ページ)
⚫︎伊坂城跡発掘調査報告
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/28/28885/20901_1_伊坂城跡発掘調査報告.pdf
(三重県埋蔵文化財センターより)
⚫︎「勢陽五鈴遺響(せようごれいいきょう)」とは、江戸時代の国学者・本居宣長が、1770年(明和7年)に書いた作品で、宣長が伊勢地方にある5つの鈴(神社の象徴)を巡る旅を記録したもの。
「五鈴」とは、伊勢神宮内宮・外宮をはじめとする五つの神社のことを指し、それらを巡礼しつつ、宣長が見聞きした風景、神話、古歌、伝承などについて考察を加えた紀行文です。