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No.682_城跡巡り 河和城址(愛知県美浜町)

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2025年1月26日(日)
河和城(こうわじょう)
所 在:愛知県知多郡美浜町河和西谷
34.7756801, 136.9082492
駐車場:空スペース
34.7763603, 136.9081091
別 名:なし

⚫︎河和城は、渥美半島の田原城主戸田氏によって造られた戦国時代の城です。「城」というと姫路城のような天守閣や石垣を想像するかもしれませんが、戦国時代の城は、「土塁」や「横堀」で守られていました。河和城には「土塁」や「横堀」などの遺構が良好に残っています。
 1590年8月、秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光が小田原で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関ヶ原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。(現地案内板より)

⚫︎河和城は、長禄年間(1457-1459)に戸田宗光によって築かれたと伝わる。三河田原城主であった宗光は、渥美半島一帯を支配し、海を隔てた知多半島にも勢力圏を拡大していた。城主は憲光、繁光、守光と続く。天正18年(1590)小田原の役に出兵していた守光が討死したという報が届くと、郷民は河和城を破却したという。難を逃れた守光の嫡子である光康は徳川家康に仕え、母方の姓である水野氏を名乗った。後に光康は尾張藩に仕え、旧地である河和に所領を与えらた。
 知多厚生病院の南東にある丘陵が、河和城である。主郭は東西約60m、南北約80mの規模である。城域全体から見れば、主郭自体の占める面積がかなり大きいのが特徴的である。
(愛知の山城ベスト50を歩く 50ページ)

⚫︎河和の地は、知多半島東南部にある港で、三河湾を隔てて矢作川の下流地方に対している。
 室町時代後期、三河湾田原城城主戸田忠次の一族戸田孫に右衛門が、この地の西谷に城を築いたといわれる。その子孫八郎守光は、緒川城城主水野信元の女と結婚したが、天正18年(1590)、小田原の陣に加わって討死を遂げた。この報を聞いた領民は、暴動を起こして城を破壊したといわれる。守光の子伊豆守光康は、外祖父信元の水野姓を名のり、家康に属したが、さらに尾張藩藩祖徳川義直に仕えて河和の旧領を給された。(日本城郭大系9 304ページ)

⚫︎長禄年間(1457-59)、河和の領主戸田孫八郎が河和城を築く、その子孫八郎守光は緒川の水野信元の聟となり、水野の姓を称し、織田氏に属した。その後、守光は相州小田原の陣に出陣し、天正18年(1590)討死の報が伝わるや、郷民は大いに乱れ、ついに破城に及んだという。しかし、その子孫は尾張藩に仕え、旧領たる故をもって河和の領知を復せられた。
現在、城址の一部は開墾され、果樹園となっているが、周囲は鬱蒼たる樹木と竹藪におおわれ、古井戸一個と堀の跡を残し、俗にお城山と呼ばれている。
(日本城郭全集7 103ページ)

⚫︎まとめ
河和城は、長禄年間(1457-1459)に渥美半島の田原城主戸田宗光によって築かれたと伝わります。
当時の城主戸田守光は、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに出陣しましたが、討死。
その知らせを聞いた郷民は河和城を破却しています。

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