1985年、その世界最高峰との闘いの経験が、発揮される時がきた。
新日本プロレスから長州力ら「維新軍団」が参戦してきたのだ。
そして、11月に実現した長州力とのシングルマッチで、鶴田は試合前に、こうコメントした。「僕のプロレスは世界史。彼のプロレスは日本史。その違いを見せつけますよ」
結果こそ60分時間切れ引き分けながら、内容で圧倒。「鶴田強し」をファンに大きくアピールすることとなった。
長州が新日本プロレスに復帰後は、盟友天龍源一郎との鶴龍対決がヒートアップ。さらに天龍が新団体SWSに移籍後は、三沢光晴ら後輩相手に圧倒的な強さを発揮。いつしか鶴田は「怪物」と言われるようになっていた。
若い頃、外国人相手に闘っていたときには見えにくかった鶴田の本当の強さが、日本人同士の闘いで、あらためて明確となり、デビュー当時からトップレスラーだった早熟の天才は、遅咲きの大輪を咲かせ、ファンの大きな支持を獲得した。
だが、そんな鶴田の絶頂期は長く続かなかった。
右ヒジの軟骨手術のために、慶應義塾大学病院に入院。そこで血液検査をしたところ、母子感染のB型肝炎のキャリアであることが判明したのだ。そしてシリーズを欠場。欠場の理由は、事実は伏せられ、「古傷の左足首の状態悪化」とされた。
肝機能の数値が正常に戻り、1シリーズを休んだだけで戦列に戻ったが、復帰2シリーズ目となる「ジャイアントシリーズ」を戦い終えたところで、またしても数値がハネ上がってしまった。
健康な人の30倍近い数値で、普通の人だったら、もはや立っていられない切迫した状況で「即、再入院」となってしまった。入院して1週間もたつと黄疸症状が現れ、白目が真黄色になるほど状態は悪化。退院まで、早くても3か月はかかると診断された。鶴田の妻、保子夫人は、主治医から「このまま肝臓が持ちこたえられなければ、ご主人は肝不全で〇くなります」と宣告されていた。
それを受けて全日本プロレスから、マスコミに向けて入院の事実が明らかにされた。だが、表向きの理由はジャイアント馬場の判断で「内臓疾患」と公表された。
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