秋蛇星短編映画製作所 20240320 作品№4306
神戸市のスラム問題と番町地区・神戸市の同和地区と山口組の歴史~実録映像付き
神戸市のスラム問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』版
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神戸市のスラムの一つ長田区の番町地区(現在は同和地区指定されていない)
神戸市のスラム問題(こうべしのスラムもんだい)では、兵庫県神戸市における近代以降のスラム問題について説明する。
概要
1867年(慶応3年)の開港を機に、外国人居留地が整備され、北野地区に異人館街、西国街道沿いに元町商店街と業務街である栄町通りが発展し、明治期には神戸の都心の骨格が形成され[1]、神戸市への人口流入は飛躍的に増大した。明治4年には北野村、宇治野村、花熊村の戸籍ですでに従来の村民の2-3倍に当たる来住人や借家人が見られた。流入者の多くは「日稼人足」であった。海外との貿易の拡大に連れ、荷役作業の労働需要が高まりを見せ、居留地建設をはじめとして市街地、道路整備などの公共工事に伴う土木作業の労働需要が増え、こうした力役・補助的労働者が必要とされた。彼らは力仕事の傍ら、行商にも出て生計を立てた[2]。
日稼人足
日稼人足は比較的容易に仕事が得られるために、港の荷役作業場周辺に居住した。親方が運営する「労働部屋」に「部屋人足」として住み込む者や、木賃宿・棟割長屋に家族と生活する者などもいた。明治30年代初頭辺りまでには、神戸港周辺にこうした「日稼人足」が数多く居住するに至る。古湊通には多くの木賃宿が集結し、沖仲仕人足の供給源となった。また上橘通などの長屋には、夫は仲仕仕事に出て妻がマッチの箱貼りの内職をする世帯が多く見られた[2]。
こうした木賃宿や長屋は、幕末以来度々大流行したコレラを初めとする伝染病の温床とみなされ、衛生の観点からの対策を求められるようになった。当時の神戸は海港都市の宿命として、長崎や横浜とともにしばしばコレラ流行の発信地となっていた。また、地域経済の発展に伴い、市の中心部を商業地域として整備すべきとの意見が大勢を占めるに至り、木賃宿、長屋はふさわしくないとする意見が多くみられるようになり、明治30年代以降、新たに神戸に上陸したペストへの恐怖とも相俟ってスラム対策がさらに強化されていく[2][3]。
新川スラムの誕生
1899年(明治32年)7月、改正条約施行に伴い治外法権が撤去され、居留地制度も廃止されることとなった。有力者たちの中に、その機会に市区改正を推進し、土木・衛生・教育・勧業政策全般の刷新を図ろうとする気運が高まる。その一環として木賃宿移転の声も上がった。兵庫県は同年同月には宿屋営業取締規則を改正し、翌月には木賃宿営業区域を葺合村と長田村の一部に限定し、市内の木賃宿の移転を命じた。翌1900年には「不良長屋」の移転も計画された。これらの移転先として指定されたのが葺合村周辺が「新川」地域であったが、これらの移転はスムーズには運ばず、「新川」地域は長屋裏屋建築規制が適用されず安価な長屋が建てやすかったことも手伝い、明治30年代に爆発的な人口の増大を見る。この時期から大正期にかけてに生田川(新川)周辺に「新川」スラムが形成され、木造密集地域として現在に至っている。1901年‐1906年の5年間に葺合区の人口増加率は1.42倍であったが、「新川」地域は約5倍となりそのまま肥大化し、東洋一のスラムと言われた日本最大のスラムにまで成長。同地区は神戸国際ギャング団、伝説のヤクザボンノこと菅谷政雄(三代目山口組若頭補佐)、五島組組長の五島伊佐夫、初代松浦組組長の松浦繁明などの他、松下組組長-松下靖男、松下会会長-松下正夫をはじめとする初代山健組幹部(後に山口組幹部)の出身地としても知られ、山本健一が主にこの地区出身の組員らと共に初代山健組を結成。[2][1]。
下層社会の生活
スラム住民によって代表される都市下層民衆の理想的生活形態は、女房、子供を夫が養うことのできる世帯の創出であったが、実態は雇用の安定しない「日銭稼ぎ」で、女房は言うに及ばず、子供も労働に加担しないと生計が維持できないほどであった。地域内には、行商人が開く仮設市場や一膳飯屋などがあり、売れ残りの安い魚や野菜などが売られ、不安定な日銭稼ぎの労働者たちの生活を支えるに好都合な仕組みができ上っていった。しかし、仕事にありつけない者はその日食べる米にも窮するありさまであった。スラムでは5軒、10軒単位で長屋の単位が形成され、米の貸し借りが行われたり、家主・地主の地域の顔役に援助を頼むなどの助け合いが行われるようになり、「共同主義」と呼ばれ、地域の強固な絆となっていった[2]。
こうした下層社会の生活者らは日露戦争後の都市民衆騒擾の主人公となる。1905年(明治38年)9月、日露講和条約に賠償金がないことに不満を抱いた民衆が蜂起し、東京をはじめとする大都市で騒擾(そうじょう)を起こした。神戸では民衆が湊川神社の伊藤博文の銅像を倒し、引き回すという激しい騒擾が繰り広げられた。騒擾の先頭に立ったのは行商人や「日稼人足」であった。大正2年2月には第1次護憲運動の渦中、立憲国民党から立憲同志会に鞍替えした代議士小寺謙吉の邸宅が多数の民衆に襲撃される事件が勃発。騒擾には職工や学生、行商人、日稼人足などが参加した[2]。
騒擾の背景には下層社会の生活難があった。日露戦争後の深刻な不況に1911年(明治44年)には米価高騰が重なり、8月には「紙屑長屋」「蜂の巣」などと呼ばれた棟割長屋住人の中には絶食者が出始めるに至り、地域の共同体が破綻せざるを得なくなり、家主・地主の援助も滞りがちとなり、民衆の不満が騒擾という形で爆発した[2]。
細民部落改善事業
明治末期には、都市での下層社会の問題は政治問題となった。スラム対策がさらに強化され、同時に「都市スラム」に住んでいた「貧民」の選別も進行。「まじめな貧民」と、「あらゆる悪徳の製造場なる木賃宿」に沈殿し周囲に「悪影響を及ぼしている貧民」は区分けされ、劣悪な住環境の木賃宿の市中心部からの強制移転や木賃宿と実態が変わらない下宿・長屋裏屋の取り締まり強化が行われ「都市スラム」の解体が進められた。行政により新たに木賃宿営業区域として指定された移転先は、市周縁部に位置していた被差別部落周辺であった。そこは長屋裏屋建築規制の対象外であり、さらに狭小・劣悪な木賃宿や二畳敷・三畳敷程度の長屋が続々と建築され、急激な都市化による家賃高騰も手伝い、「貧民」が大量に流入していった。同時にその地域は、市中から排出される塵芥の処分地とされ、元々小さな集落であった被差別部落を、膨張を続ける「都市スラム」が吸収するような形で再編成され、新川スラムは明治末期で戸数(川以東1500戸と川以西800余り)約2300戸余り、住民約15000人を擁する日本有数の一大スラムと新聞で報じられた。[3]。
賀川豊彦
脚注
^ a b “神戸市 第4回計画評価部会 資料o.2”. 2020年11月30日閲覧。
^ a b c d e f g h i j 『新修・神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』神戸市 1994年1月20日発行
^ a b c “共済研修講師日誌 賀川豊彦記念松沢資料館嘱託講師の活動報告”. 2020年11月30日閲覧。
番町地区 (神戸市)
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今も昭和の平屋の住宅を多く残す番町地区の街並み(2020年)
番町地区(ばんちょうちく)は、兵庫県神戸市長田区五番町、六番町一帯を指す地区名。
東洋一のスラムと言われた日本最大のスラム、葺合村の「新川スラム」に次ぐ、同市2番目の規模のスラムが存在し、被差別部落でもあったが、神戸市は既に公的には「同和地区」の指定を行っておらず、当地区も同和地区には指定されていない[1][2]。
歴史
大通りから見る五番町
長田神社商店街鳥居が左端に見える。
江戸時代は長田村に属する皮多村であり、糸木という地名であった。1868年の神戸港開港により、神戸には全国から職を求めて貧民が急増しスラムが散在するようになる。伝染病の流行もあり、兵庫県が行ったスラム対策によって、葺合村の新川地域とともに番町地区周辺には貧民らが多く移り住むようになった[1][3]。
神戸市内でも葺合村の新川スラムに次ぐ同市2番目のスラムとして知られ[1]、1935年の記録では1,057世帯、5,262人(新川スラムは約15,000人)が居住し、大阪の西成地区に次いで2番目に大きい同和地区と言われることもある[2]。新川地区と同様に山口組関係者も多く、2015年10月8日には長田区五番町2の暴力団事務所で指定暴力団山口組(総本部・神戸市灘区)から分裂した暴力団「神戸山口組」が定例会とみられる会合を開いたことが警察により確認されている[4]。
番町地区の住民からは「差別の川」と謳われた新湊川。民間有志によって付け替え工事が計画され、番町地区の北側を東から西へ流れる現在の流路に付け替えられた。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では最も揺れが激しかった地域の一つであった上、老朽化した木造住宅が密集していたことが重なって被害が拡大し、今もその傷跡を残す[2]。同区の被差別部落のすぐ北側には新湊川が流れており、阪神・淡路大震災からの復興を機に水害防止策として、1990年代後半から5か年、総工費約186億円を投じ、川底を2メートル掘り下げ大改修を行った。これに関して、部落解放同盟神戸市連絡協議会の平林照夫事務局長は「明治30年に工場地を水害から守るため、川がねじ曲げられ、部落のすぐ山側を通るよう付け替えられた。川が氾濫すると部落は水浸しになった。共同便所からは汚物があふれ不衛生極まりなかった」と発言。「東から西へ横を向いて流れる川など、神戸の町なかで聞いたことがない」と話す住民[誰?]もいる。
五番町には「ぼっかけうどん」発祥の店が存在する。
神戸市の都市計画専門の大学教授[誰?]によれば、阪神・淡路大震災で震度7を記録した区域と、神戸・阪神間にある主な被差別部落はほぼ地図上で重なる点について、同和地区の多くが鉄道沿線にあり、線路沿いは騒音やばい煙による火事の心配、盛土などで一般から敬遠されていた点などを挙げ、震災のずっと以前から、地区が自然災害と無縁でなかったことを指摘している[5]。南北に流れていた旧湊川は堤防の高さが6mを超える所もある天井川で、水害で堤防が決壊すると周辺に大被害をもたらした。さらに番町側は対岸に比べて護岸壁の高さが2mから3m低いため[6]、番町地区の住民からは「差別の川」と言われていた。民間有志によって付け替え工事が計画され、番町地区の北側を東から西へ流れる現在の流路に付け替えられた。しかし現在でも新湊川の堤防は番町地区の民家の屋根より高く、増水時には川の水は番町地区へと流れて洪水の危険性がある[3]。
長田神社前商店街と長田橋。ここから南東側一帯が番町地区である。
1996年夏から1997年にかけて部落解放同盟の番町支部は、同区で被災し地区外の仮設住宅へ移った住民の安否確認を兼ねた実態調査を行った。その際の調査で、番町地区の住民には独特の言葉遣いが見られることで被差別部落出身者であることが人に知れ、肩身の狭い思いをしていることが明らかになった[7]。部落解放同盟の番町支部の前身ができたのは1961年で、住民闘争や自動車運転免許取得のため「車友会」などの取り組みが行われた。同盟員の減少や同和対策事業特別措置法(同対法)の期限切れなどにより支部活動は低下し、2020年現在は活動していない[2][3]。
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