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【関東最強のパワースポット】鹿島神宮 Kashima-Jingu shrine

Tim CHANNEL 230 lượt xem 3 days ago
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鹿島神宮の説明の前に国譲りの話をします。
出雲の国を平和に治めていた大国主神(おおくにぬし)のもとに、天照大御神(あまてらす)の遣いがやってきます。
突然のことに驚く大国主神でしたが、大事な客人なので接待をします。この接待に気をよくした遣いは気づいたら、その人柄に惹かれ、自分のお遣いを忘れてしまいます。
天照大御神は2人目の遣いをさせますが、この遣いは大国主神の娘と結婚します。2人目からの連絡がなく痺れを切らした天照大御神は、3人目の遣いとして、武甕槌神(たけみかづち)と天鳥船神⭐︎(あめのとりふね)を出雲に向かわせます。
⭐︎古事記では天鳥船神⭐︎(あめのとりふね)で日本書紀では経津主神(ふつぬし)です。

稲佐の浜に降りたった、剛健な武甕槌神は十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆に立て、その剣先にあぐらをかいて座ります。大国主神に「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」と訊ねます。大国主神は、自分の前に息子の事代主神(ことしろぬし)に訊ねるよう言います。事代主神はその時、魚を釣りに出かけていたため、天鳥船神が事代主神のところに行き国譲りを迫ります。
これに対して事代主神が「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えると、船をひっくり返し、逆手を打って船の上に青柴垣(あおふしがき)を作ってその中に隠れます。
この釣りをしていた事代主神が後の「えびす神」です。
武甕槌神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主神に訊ねると、大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう言うのです。
そこに建御名方神が現れ、「それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴みます。武甕槌神は手を氷の氷柱に変えて、さらにそれを剣に変化させます。今度は武甕槌神が建御名方神の手を掴み放り投げたので、その圧倒的な強さを前に建御名方神は逃げ出します。
武甕槌神は建御名方神を遠く信州まで追いかけ、建御名方神は諏訪湖で追い詰められます。建御名方神は「恐れ入りました。どうか殺さないでください。この土地以外のほかの場所には行きません」
と誓うのです。
こうして地上の国を天上の国に譲るのです。

常陸国一ノ宮 鹿島神宮は、この三番目の交渉人であり、国譲りを実現させた柱、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が御祭神の神社となります。
平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)では伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけでした。
都から遠く離れた東国の神社が、格式で他の神社と一線を画した「神宮」とされたのは何故なのか。考察していきます。

日本の初代天皇となる彦火火出見(ひこほほでみ)は、九州の高千穂を出発し船で海を渡り大和(今の奈良県)を目指します。東征の途中、一行は熊野の悪神の毒に倒れてしまいます。
地上世界の喧騒を心配した天照大御神(あまてらす)は、すでに天孫降臨を成就させた武甕槌神(たけみかずち)を遣わそうとしたところ、武甕槌神は「自分が行かずとも、国を平定した特別な剣があるのでそれを天より降せばよい」と武甕槌神の神剣である「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」を地上に届けます。剣の神威により息を吹き返した彦火火出見の軍は見事大和を平定し、彦火火出見は神武天皇として日本の初代天皇に即位されます。
神武天皇は剣に救われた神恩への感謝から、鹿島地方に神社を創建します。紀元前660年に創建されたこの神社こそが、鹿島神宮です。
何故鹿島なのか。も含め東国ついては「記紀」でも詳しく語っていないのです。記紀自体、政権による統治の正当性や国家の形成、発展の来歴を明示することを目的として、奈良時代に国史を編纂したものであるため、触れてはいない部分も多いのです。
天照大御神により武甕槌神は、鹿島の神とされたのは確かなものであろうかと思うわけです。
大国主神が日の沈む西の果て「出雲」に対し日の出る東の果て「鹿島」に天照大御神の遣いである武甕槌神を置いたと解釈すると、神話としてはしっくりくるのです。
また、日本のほとんどの神社は参道、本殿は東か南向きなのですが、鹿島神宮は西から参道が始まり、本殿は北を向いているのです。
大和朝廷はかつて東北にいた蝦夷という民族に苦しめられました。武力・経済力とも非常に強い民族で、何度も征夷大将軍を筆頭とする討伐軍を送るが、一進一退を繰り返し、常に蝦夷の侵攻に怯えていたのです。
当時の常陸国(茨城県)と上総国(千葉県)は、朝廷の国府が置かれていた場所であると共に、蝦夷征伐において重要な軍事輸送拠点でした。そして蝦夷の侵攻から大和国を守るために、鹿島神宮の本殿を北側に向けたようです。
鹿島神宮と鹿は深いつながりがあります。武甕槌神(たけみかづちのかみ)の元へ使いとしてきたのが天の迦久神(あめのかぐのかみ)で鹿の神様です。
奈良県の春日大社建立の際、鹿島神宮の武甕槌神を祭神の一神(いちかみ)として祀りました。
その時、武甕槌神は鹿の背中に乗り一年をかけて鹿島から奈良まで来たと言われ、各地に伝承が残っています。神様の使いとされる鹿は、非常に大切にされています。
鹿といえば奈良の鹿が有名ですが、この鹿たちの祖先は、鹿嶋から行った鹿と伝えられています。

奥参道への入口の結界を先に進むと左手に鹿園(ろくえん)があります。ここでは鹿さんたちに餌をあげられ、子どもたちに人気のスポットです。
改めて、そういう事を知り鹿さんを見ていると不思議に思います。

更に奥に進むと奥宮があります。
本殿と奥宮は機能が分かれていて、本殿には和魂(にぎみたま)、奥宮には荒魂(あらみたま)が祀られています。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、その御礼に本宮として奉納した社殿で、当時は今の本殿の位置にありましたが、その後、徳川秀忠により新たに本殿が建てられるにあたり、現在の位置に遷されました。

また奥宮の背後にも本宮の背後と同様に御神木が立っています。 こちらは知る人ぞ知る場所で、柵に囲まれていないので触れるのです。

鹿島神宮の奥宮から少し進むと要石(かなめいし)があります。40cmほどの小さな石が埋まっています。根が地下深く通じており、大地震のもとである鯰を抑えているといわれています。
ある時、徳川光圀がこの話を聞き、本当かどうか掘って確かめようといいだしました。家来たちは神罰をおそれ反対したのですが、光圀は聞き入れませんでした。
その日は5mほど掘り下げましたが底が見えずその日は終了します。
次の朝も掘ろうと要石なもとに行くと、昨日掘った穴がきれいに埋めつくされていました。怒った光圀は倍以上の人員で掘ります。ところが次の日も次の日も同じでした。ある日、眠っている光圀の耳に不思議な声が聞こえてきました。「要石を掘りたい気持はわかるが、物には限度というものがあるぞ。それを忘れると、いつか禍いがふりかかる」光圀はびっくりして起きると、家来を集めて「これだけ掘り続けてもビクともしない要石は、間違いなく地中の根に達しているにちがいない。もう穴を掘るのはやめにしよう」と言ったそうです。
また、安政の大地震は10月に神様が出雲大社に集まっているときに起きたため、武甕槌神(たけみかづちのかみ)も留守にしていたため要石が外れて、地震が起きたと考えられ、地震直後に鯰絵が大流行します。
要石と反対の方向に進むと御手洗池があります。こちらも謎の多いところです。
古くは身を清める禊の場として使用されてきた神聖な場所で、 現在でも毎年1月に大寒禊(だいかんみそぎ)が行われており、約200人もの人々が池に入って禊をするそうです。1日40万リットル以上の湧水がある御神水で、水底は一面が見渡せるほど澄みわたっています。子どもが入っても大人が入っても水位が胸のあたりを超えないという伝説は有名です。
こちらの水は飲めるため持ち帰りできます。ただ煮沸してからということです。

色々と再発見できた鹿島神宮です。ここも歴史を紐解くよりも大切なものがある素晴らしいところでした。ここには間違いなく神様が宿り、光が射す日出る(ひいずる)ところです。

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