【合戦解説】第一次 河東一乱 北条 vs 今川 〜 当主 今川氏輝の死により発生した今川家の内訌に義元派として主力を派兵し 勝利に貢献した北条氏綱であったが… 〜
時は 戦国時代中期
天文5年(1536)3月
今川家一門の将 福島弥四郎が起こしたクーデターにより、当主 今川氏輝とその弟 彦五郎が殺害されてしまう とんでもない事件が発生する。
弥四郎は 先代 今川氏親と側室 福島正成の娘との子である 三男『玄広恵探』を新たな当主に擁立するため 久能城へ入ると 今川館襲撃の時を待った。
一方 我が子 氏輝、彦五郎の死を知り深く悲しんだ 氏親の正室 寿桂尼であったが 次は我が身であると悟ると最後の男子である『栴岳承芳』に今川家を継がせるべく即座に動いた。
寿桂尼は公卿出の力をフルに活用し、銭の力で朝廷や幕府を動かすと、承芳の還俗、そして将軍 足利義晴からの偏諱も取り付け名を『今川義元』とし、正式な後継者であるとの大義名分を得た。
義元の教育役である 太原雪斎も 戦は避けられないと判断すると、甲斐の武田、伊豆・相模の北条を味方に引き入れ 戦の支度に取り掛かる。
久能城の福島弥四郎も 義元に対抗し 恵探の名を『今川良真』と改め、近隣の関口氏を調略し、見付端城の堀越氏らを中心とした遠江衆の援軍を得て 今川館襲撃の時を図っていたが、北条氏康を総大将とする8000の北条軍が敵方として駿河に向かってくることを知ると数での不利を悟り、夜襲で館を押さえる動きに出た。しかし、夜襲は失敗に終わり 更には 北条水軍に久能城も落とされ、帰る地を失った 良真派は 関口領の花沢山に逃げ込んだ。
北条の援軍を得た 今川義元は 北と南から関口領への総攻撃を仕掛けると、追い詰められた 今川良真、福島弥四郎は花沢山を脱出し、良真の古巣花倉城に撤退。しかし それを追いかける 義元派の軍勢に攻められ落城。福島弥四郎は討ち取られ、良真も 義元の前で切腹し果てた。
こうして『花倉の乱』と呼ばれる 今川のお家騒動は 約3ヶ月の速さで決着がつき、正式に今川家 第11代当主となった今川義元は、良真派として敵対する西遠江の鎮圧に即座に動き出す。
一方 今川の混乱終息に安堵した北条氏綱は いよいよ東の房総、そして北の両上杉への対応策を練り始める…
[武将写真提供者]
今回、なつめ堂様より 古河公方 足利晴氏役の写真を特別にお借りいたしました。
ありがとうございます。
■モデル…天心流兵法 まーこ様
(twitter@harima_mekkai )
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https://natsu39.booth.pm/
[ご覧になられる方へ]
※個人制作となりますので誤字脱字等ありますことご了承ください
※番組内に登場する忍キャラは、ユキムラが楽しむスマホ版ゲーム『みんゴル』でユキムラが愛用するキャラクターとなります。ぜひ「みんゴル」もやってみてね!
※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります
※合戦や物語の出来事は諸説あります
※制作の都合上全ての情報や登場武将を網羅してはおりません
※登場人物名は改称時期に拘らずわかり易い表記で記載しております
※演出時に大きな音が出る場合があります
※2022年時点での歴史資料を元に作成しております
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