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経験してみること

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経験してみること
埼玉県在住  関根 健一

コロナ禍での社会的な制限が解け、一年以上が経ちました。会いたい時に、会いたい人に会えなかった時間を取り戻すかのように、最近は週末ごとに各地域でのイベントが盛んに開催されているように感じます。
先日、長女が通う障害者事業所のある隣町で開催される「福祉まつり」のご案内が届きました。地域住民の皆さんが作り上げてきた30年以上の歴史があるイベントで、長女が通う事業所も毎回出店し、利用者の皆さんで作った授産品や飲食物を販売しています。それに加え、今回は普段行っている音楽活動の発表の場としてステージにも上がるため、是非家族で応援に来てくださいとのことで、長女の送迎も兼ねて妻と行ってみることにしました。
会場に到着後、模擬店などで賑わう広場を一回りして、ステージがある文化会館のロビーで長女を支援員の方にお願いし、私たち夫婦は客席へ。他の事業所や任意で活動するグループの発表もあり、それらを楽しみながら長女の出番を待ちました。
何週間も前から「ステージ緊張する」とこぼすぐらいにプレッシャーを感じていた長女も、いきいきと歌うことができ、私たちもホッと胸をなでおろしました。
ステージが終わった後は解散になり、家族でお昼ご飯がてら会場を回りました。会場内では障害福祉、高齢者福祉に限らず、こども食堂や里親連盟、小中学生のボランティア体験に携わる人たちが、活動の紹介や作品展示を通じて啓発を行い、活動資金を得るための飲食販売もしていました。美味しいものが食べられるとあって、普段あまり福祉に関わる機会も少ないであろう家族連れも多く来場していて、福祉にふれる機会として素晴らしいお祭りだと、妻と感心していました。
会場は公共施設なので、バリアフリーでどんな方でも安心して参加できるように色々な配慮がされていますが、結構混雑していました。
今回に限らず、都心の駅や商業施設でもそうなのですが、車椅子の長女を押しながら人混みを歩くのにはかなり神経を使います。というのも、長女の車椅子は座位保持装置といって、体に合わせてオーダーメイドで作ったクッションを乗せているものなので、一般的な車椅子に比べてかなり大きいのです。
車椅子を押しながら人混みを歩く経験をしたことがある人はあまり多くないかも知れませんが、大きな荷物を載せた台車で人混みの中をすり抜けると言えば、イメージしやすいかと思います。しかも車椅子の場合、乗せているのが生身の人間ですから、より注意深く、長女はもちろん、周りの歩行者にも怪我がないよう進まないといけません。
ところが、周りの人は急いでいるからか、時折目の前をスルッと横切る人がいます。もちろん悪気はないと思うのですが、こちらはヒヤリとします。例えるなら、車を運転していて、横から急に自転車が連続して飛び出してくるような感じです。なので、長女と一緒に人混みを歩く時は、一人で歩く時に比べてかなりの時間がかかるのです。
話は変わりますが、全国の小学校で20年ほど前から「総合的な学習の時間」という授業が設けられています。国語や算数などの教科にとらわれず、総合的、横断的に学習することを目的にできたものと聞いています。
次女が小学三年か四年の頃だったでしょうか。この「総合的な学習の時間」の一環で、近々車椅子体験をするということで、友達と一緒に長女の車椅子に乗っていたことがありました。生まれた頃から家に車椅子がある次女は、慣れた手つきで操作することができます。それを見ていた友達は、「上手だね!すごいね!」と言って目を輝かせていました。
その後、次女の通う小学校で車椅子体験を見学する機会がありました。普段乗ることのない車椅子を前に興奮気味の子供たちでしたが、恐る恐る乗り始めるとすぐに慣れてきて、押してくれる友達に「右」「左」と指示をしていました。体験しながら、同じグループ内で口々に感想を述べ合っています。子供の持ち前の素直さが、初めて体験したことをスポンジのように吸収していくのだなあと感心しました。
しかし体験が終われば、子供たちは自由に歩くことができます。もちろん、「車椅子での生活は大変だ」と感じることで、障害のある人への対応に変化があるかもしれませんし、この体験自体に意味がないわけではありません。
子供たちのこれからの人生、自分が車椅子に乗る可能性は低くても、車椅子の人に接することは多々あると思います。そうした時に、授業での体験だけでなく、私のように車椅子を押して人混みを歩く経験など、実際に「車椅子を押してみた」「手伝ってみた」という体験があるとないとでは、見えるものがだいぶ変わってくると思うのです。
例えば、先ほどのお祭りでのことです。果物やお菓子にチョコレートを付けて食べる「チョコファウンテン」のお店があり、長女も自分でやってみたいと言うので購入することにしました。
お金を払うと果物やお菓子を載せたお皿を受け取り、溶けたチョコレートが循環する機械でチョコレートを付けます。機械が二台並んで置かれているのですが、経験上、長女の車椅子は場所をとるため、機械が二台空かないと出来ないと感じたので、先に来たお客さんが終わるのを待っていました。
すると、店員さんが「空いてますよ、どうぞ」と促してくれます。ありがたいのですが、隣りでチョコレートを付けている家族の邪魔になりそうなので、「すみません、二つ空いたらでいいですか?」と言うと、店員さんも事情を察して「あ、いいですよ」と返してくれました。こちらから説明しなくても事情を理解して下さったようで、とても嬉しい気持ちになりました。
また、こんなこともありました。家族で食事をした時のことです。席に着くと間もなく全員分のお冷が運ばれてきます。長女はコップから直接飲むよりも、ストローを使う方が飲みやすいので、店員さんに「ストロー頂けますか?」とお願いしました。
用意してくれたストローを見ると、コップの大きさに合わせて短くなっていて、それは介助する家族にとって扱いやすい絶妙な長さでした。もしかすると、元々子供用に短くされているものかもしれませんが、私たち家族の気持ちを分かってくれたようでとても嬉しかったことを、10年以上経っても覚えているのです。
よく「相手の立場に立ってみて考えよう」という言葉を耳にしますが、様々な環境の違いから相手の立場に立てないこともあります。そうした時に、相手の気持ちを慮る上で、自ら経験してみたことが生きてくるのではないでしょうか。
信仰生活を通して、様々な立場の人のお話を伺うことがあります。相手の立場と自分の立場、その距離感を大切にしながら、人の心に寄り添っていきたいと思います。



かしもの・かりものの理

「それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。」
この「おかきさげ」の一節こそ、天理教の教えの角目となる「かしもの・かりもの」の教えです。教祖は、直筆による「おふでさき」において、

  めへ/\のみのうちよりのかりものを  しらずにいてハなにもわからん (三 137)

と、この身体は神様からのかりものであるということを知らなければ、この世界の真実について何も分かりはしないのだ、とまで仰せられています。
私たちは親神様から身体をお借りし、その大いなるご守護によって生かされて生きている。こうして言葉にするのはいとも簡単ですが、これを心に治めて通るところに、それまでの人生観や生活態度が一変します。
今までは自分の力で生きていると思い、己が力や才覚を頼りにしてきた。ひたすらに利益を求め、そのためには手段を選ばず、人を押しのけてでもやり遂げるんだ、とまっすぐに突き進んできた。
ところが、かしもの・かりものの理が治まれば、考え方が変わってきます。いかに力や才覚があっても、親神様のご守護がなければそれを有効に働かせることはできない。そもそも親神様のご守護を頂いてはじめて、私たちは生きることができるのであって、それがなければ健康も豊かな生活も望めないのです。
そこで、「心一つが我がの理」と、ただ一つ自由に使うことを許されている心の使い方をあらためる。親神様の思召しに添うように、互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしへ向けて心を入れ替えていく。それまで自分のことにしか思いが届かなかった生き方を180度転換し、人の喜びのために、人のたすかりのために思いを寄せていく。これがすなわち、心の生まれ変わりなのです。

  このよふハ一れつハみな月日なり  にんけんハみな月日かしもの   (六 120)


  せかいぢうこのしんぢつをしりたなら  ごふきごふよくだすものわない  (六 121)


かしもの・かりものの理に目覚めることが、親神様が望まれる、明るく陽気な心に生まれ変わる一番の手立てとなるのです。
(終)

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