僕は誰ですか?
岐阜県在住 伊藤 教江
私たちには必ず親がいます。その親を、本当に私の親なのだろうか…と疑ったことはありますか?
私は、幼い頃、親の言うことを聞かなかったために、「お前は橋の下で拾ってきた子」と叱られたことがあります。しかし、たとえそう言われても「私の本当の親は誰なの…?」と思ったことすらありません。なぜなら、どんなことがあっても、自分の親を間違いなく親だと信じ切っているからです。だからこそ安心して暮らせるのだと思うのです。
何年も前、教会で一人の少年を預かることになりました。その少年は、小学校を卒業するまでは何事もなく、家族で幸せに暮らしていました。
しかし、中学に入ったある日、たまたま自分の戸籍を見て、今まで何の疑いもなく信じてきた親が、実は本当の親ではなかった…という事実を初めて知りました。
少年は、「僕の本当の親は誰なの? …もう誰も信じられない!」と、自分が信じていたすべての「元」が崩れ出し、この先の将来の夢をも一瞬にして見失ってしまいました。とても素直で成績も優秀な少年でしたが、その後、不登校・ひきこもりになり、生きる気力さえもなくしてしまいました。
私たち夫婦は、この少年が生まれる前からの事情や、その後なぜ実の母親K子さんが少年を育てられなかったかということも知っていました。
さかのぼること十数年前、実はK子さんがこの少年をお腹に身ごもっていたことを、K子さん自身も家族も誰一人として分からなかったのです。なぜならK子さんは精神的な病で、自分のことも周りの状況も判断出来ない状態だったからです。身体も大きくて太っていたので、一緒に暮らしていた母親も妊娠には全く気づきませんでした。
当時、私たち夫婦は結婚して間もなく名古屋の地で布教をしていました。その時初めて、ネグリジェを着て真っ赤な口紅を付けて歩いていたK子さんと出会いました。
K子さんは精神的な病を患っていたので、会長である主人は、K子さんの頭におさづけを取り次いでいました。するとK子さんの母親から、「この子はひどい便秘ですから、お腹にもおさづけをお願いします」と言われ、主人はK子さんの頭とお腹におさづけを取り次ぐために、三日おきに往復三時間の道を歩いて、何ヶ月も家を訪ねていました。
そんなある日、「こんにちは。お元気ですか?」と主人が、K子さんの家の玄関を開けた途端、「この子妊娠していた!早く病院に連れて行って!」と叫ぶ母親の声と、産気づいたK子さんの姿が目に飛び込んで来たのでした。
主人は急いで一緒に救急車に乗り込み、産婦人科に行きましたが、K子さんは妊婦健診を一度も受けていないために出産の受け入れを拒否され、いくつもの病院をたらい回しにされました。そして、かろうじて赤十字病院で受け入れてもらうことが出来たのです。
妊娠したら風邪薬一つでも気を付けなければならないのに、K子さんは何年も前から精神薬と便秘薬を何種類も服用していたため、お医者さんから「今まで何をしていたんですか!99,9%奇形児です。覚悟しておいて下さい!」と、K子さんの旦那さんと間違えられた主人は、すごい剣幕で怒鳴られたのです。
K子さんの母親は、「なぜ次から次へとこんな苦労をしなければならないのでしょうか…」と、病院の待合室で泣き崩れました。長年にわたり精神的な病を患った娘さんのことで苦労し、その上、本人も家族も「いつ?どこで?」相手が誰かも分からないままの妊娠出産です。
私たちは、無事に出産出来ること、お腹の子を守って頂くことを必死に親神様に祈るしかありませんでした。そして…無事に出産。手にした赤児は男の子。
その赤児は、何と五体満足に元気に生まれて来てくれたのです!
医学の世界では考えられない奇跡が起こったのです。その時私たちは、「親神様は、K子さんを便秘にしてまでも、そのお腹におさづけを取り次ぐ道をおつけ下さり、お腹にいた赤児をお守り下さったのだ」と確信をしたのでした。
この赤児は直ぐにK子さんの両親と養子縁組をし、祖父母が実の親であると聞かされ、それを疑うこともなく中学生になるまで幸せに育てられてきました。しかし、本当の親ではないという事実を知った瞬間から心を閉ざしたのでした。
「僕は誰ですか?」…少年は、一人自問自答を繰り返していました。
その中、主人は何度も少年を訪ねて、ドアの開かない部屋の前で、何ヶ月も我が子以上の愛情を注ぎながら、そっと少年の心に寄り添ったのでした。
そして、ついにドアは開いたのでした。
少年は、運命的には自分の親が分からなくとも、誰よりもずっと親身になり、寄り添い続けた主人を心から信じることが出来たのでしょう。
やがて少年は、主人に連れられ、魂のふるさと・おぢばに帰り、この世と人間をお創り下された元の親である親神様を知り、教祖の温かい親心にふれたのでした。そして、親神様の大きなご守護を頂いて、今ここに命があり生かされていることの喜びと安心を、肌身に感じてくれたのでした。
たんのう
人生はいつでも順風満帆というわけにはいきません。逆風で前に進むことができない時もあり、そんな時こそ、心の舵取りが重要になってきます。天理教では、逆風に難儀しなければならない時の心の治め方として、「たんのう」という舵の取り方を教えられています。
一般に堪能とは、「十分満足する」という意味で使われる言葉ですが、教えとしての「たんのう」は、この意味を背景に、さらに積極的な心の姿勢を表す教語として用いられています。
たんのうとは、たとえそれが自分にとって良いことであっても、不都合なことであっても、成ってくることのすべてを親神様の親心の現れと受け止め、明るく勇んで通る。そのような心のあり方であると教えられます。それは、辛抱や諦めといった消極的な姿勢ではありません。どんな中でも「結構、結構」と喜ぶところにまで徹した心の運び方です。
教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、次のような逸話が残されています。
慶応四年五月中旬のこと。毎日大雨が降り続き、あちこちで川が氾濫して田や家が流されるという事態になりました。熱心に信仰していた山中忠七さんも、持山が崩れ、田地が土砂に埋まってしまうという大きな被害を受けました。
かねてから忠七さんの信心をあざ笑っていた村人たちは、「あのざまを見よ。阿呆な奴や」と口々に罵りました。それを聞いた忠七さんはいたく残念に思い、さっそく教祖に伺うと、教祖は、
「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」と仰せられました。
忠七さんは、教祖のお言葉を聞いて、大自然の猛威をうらめしく思った自分の心に気づき、大難を小難にお連れ通り頂いた親神様のお計らいに、あらためて感謝することができたのです。(教祖伝逸話篇21「結構や、結構や」)
「たんのうのできた人」とは、どんな条件もなしに自然と喜び心が湧いてくるような人のことを指します。
「難儀さそ、不自由さそという親は無い。幾名何人ありても、救けたいとの一条である」(M21・6)との親心あふれるお言葉を噛み締め、いつでも喜びいっぱいの心で通りたいものです。
(終)