0:48出来心 30:18駒長 59:03鈴ヶ森 1:11:50やんま久次
「出来心」
別名『花色木綿』、泥棒噺の一席に数えられる。原話は文化5年(1808年)に刊行された十返舎一九『江戸前噺鰻』所載の「ぬす人」また、類話として寛政頃刊の『絵本噺山科』巻三所載の「しな玉」がある。「広い庭のある家に侵入しろ」といったら公園に忍び込み、「電話でもひいてあってこぢんまりしたところを狙え」と言われたら交番に盗みに行ってしまうような間抜けな泥棒が主人公。兄貴分にも見限られ「泥棒を廃業しろ」と宣告された泥棒は、何とか自分の実力を証明しようととある貧乏長屋に忍び込む。ところが、忍び込んだ部屋には空き家だと勘違いしそうなぐらい何もなく、おまけに物色している最中に何と家人が帰ってきてしまった
十代目 柳家 小三治
「まくらの小三治」と呼ばれるほど、まくらに力を入れており小三治のまくらを聴きに寄席に足を運ぶ常連もいたという。中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定され東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われ四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽に並び本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し大看板となった落語家のひとりである
「駒長」
題は、「お駒長兵衛」を詰めたもの。借金で首の回らなくなった長兵衛、女房のお駒を言い含め上方から来た小銭をため込んでいると評判の丈八を相手に美人局を計画。丈八が来るのを見計らって夫婦喧嘩をし丈八を巻き込んで、こんな女お前にくれてやると言って長兵衛が家を開ける。その隙にお駒が丈八を口説いて、でれでれになった頃を見計らって飛び込み金を巻き上げようという作戦。序段はうまくいったが長兵衛が親分の家で飲み過ぎてしまう。その間に、お駒は丈八を口説くうちちにすっかり意気投合し・・・
三代目 古今亭 志ん朝
七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。
「古今亭志ん朝」を名乗った他の2人は、いずれも名乗った期間が極めて短い。そのため「古今亭志ん朝」と記した場合、真打昇進から没するまで40年以上にわたって「志ん朝」を名乗り続けた三代目を指すことがほとんどである
「鈴ヶ森」
上方落語の『崇禅寺馬場』が、東京に移設されたもの。古参の盗賊が新米の盗賊に仕事を教えるために、東海道の鈴ヶ森(かつての鈴ヶ森刑場があった辺り)で追いはぎを教える。脅し文句は「お~い、旅人。ここを知って通ったか、知らずに通ったか。明けの元朝から暮れの晦日まで、俺の頭の縄張りだ。知って通れば命は無し、知らずに通れば命は助けてやるが、身ぐるみ脱いで置いて行け。嫌じゃ何じゃと抜かせば最後の助、伊達には差さぬ二尺八寸段平物をうぬが土手っ腹にお見舞え申す」『崇禅寺馬場』とほぼ同様である。
桂 歌丸
今輔門下から兄弟子4代目桂米丸門下へ移籍したのは芸術協会で勃発した香盤問題や今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発して破門状態となり一時落語からはなれていたが三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで米丸門下として落語界に復帰した。「笑点」の初期メンバーで小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが「あたしは落語を怠けている」と痛感し落語をちゃんとやることにしたという。歌舞伎は仕草や立振舞などを見て落語に活きるからと、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく観に行っていた。「歌丸」の名は師匠の四代目桂米丸が考案した名で歌丸は当代が初代である。
「やんま久次」
円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵に直伝され戦後は正蔵の一手専売だった噺
青木久次郎は旗本の二男で家督は継げず身を持ち崩し家を飛び出し背中一面に大やんまの刺青を彫ったので人呼んで「やんま久次」本所辺の博打場で負けてすってんてんになり悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというなりで番町の屋敷へ金をせびりにやってくると居合わせたのが幼いころ剣術を教わった大竹大助という先生で・・・
八代目 林家 正蔵 (彦六)
正蔵の名跡は蛯名家より借りていたもので、いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし自らの死後三平に返上する事にした。しかし1980年三平の急死に伴い正蔵の名跡を海老名家に返上し「彦六」に改名したので俗に「彦六の正蔵」と呼ばれた。他にも居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」とも呼ばれた
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