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No.673_城跡巡り 川尻城址(愛知県新城市)

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2025年1月4日(土)
川尻城(かわじりじょう)
所 在:愛知県新城市作手高里城山32
34.9814290, 137.4291288
駐車場:あり
34.9804714, 137.4293890
別 名:川尻村城

⚫︎天授年間(1375-1381)、奥平貞俊は母方の親戚で新城市作手南部の川手領主・山崎三郎左衛門高元を頼り、現在の群馬県から新城市作手地区に移り住み、甘泉寺に身を寄せている間に勢力人望を得ていった。そして、新城市作手白鳥の禅源寺の「亀山後伝記」によると、応永31年(1424)に川尻城を築いたとされる。
 標高570m、比高差40mの独立丘で、山上の本丸は東西75m、南北32mの楕円形をしており、当時は周囲に土塁をめぐらしていたと考えられる。
 後に貞俊はここから南西に約2.5km離れた新城市作手清岳に亀山城を築き移った。(現地案内板より)


⚫︎応永31年、奥平貞俊によって構えられたが、そのことを『三河国二葉松』は「川尻村城、奥平八郎左衛門上野国奥平村ヨリ爰ニ来ル此所ヨリ亀山城ヘ移ル奥平但馬守住今ハ畑ト成」とある。
 奥平氏が同村の亀山城に移るまでの短期間に利用された本城であったろうが、亀山城に移った時に廃城となったものではなく、一族の守る支城の役目は果たしていたであろう。
 城址は今、比高40mほどの独立した山の頂部を本郭とし、規模は南北約40m、東西約70mの曲輪となっている。
(日本城郭大系9 239ページ)

⚫︎川尻城は、国鉄豊橋駅から飯田線の辰野行きに乗り、新城で下車、そこからバスで川尻城址の作手村へ行く順序だが、ずいぶんと遠い行程である。「作手」は古い文献などによると、昔は多原郷といっていたのを、善福寺の聖徳太子御彫刻の十一面観音菩薩の左の手が折れたところから「割手郷」といっていたのを、のちに菩薩の手を作ってくっつけたので「作手」というようになったとか、あまり信用のできる話ではない。それはさておき、通称城山と呼ばれる標高504メートルの丘にある川尻城は山城というには貧弱だが、だといって平城ともいえない半山城という感じである。奥平貞能が応永31年(1424)3月築城したが、狭い土地なので八ヶ月ばかりたつと市場亀山城へ移り、廃城となってしまった。
 本丸は南北45メートル、東西約75メートルのやや楕円をなした地で、その中央部33平方メートルほどの小高い所に碑が立っている。そして本丸の東側に、昔の土塁のなごりがある。そして3メートルほど下に堀があって、本丸を囲んでいる。この城は構造的にも複雑な形はなく、スケールも非常に小さく、奥平氏はものの役に立たずと思って、亀山城へ移ったのであろう。
 しかし南側の手前にひらけた田園地帯の長者平にポツンと糟塚八幡宮が立っている。これは作手の予約有名な長者が、酒を造るときにできる酒糟をすてた所が塚になり、その跡に八幡様をまつったところだそうだ。この八幡宮から1キロのところに古宮城址があり、もう1キロ離れたところに亀山城があるというように、三城が一直線に並んでいたわけである。
(日本城郭全集7 92ページより)

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