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後楽園ホールに監禁された!長州のWJ 悲惨な結末とは? #プロレス #格闘技 #RIZIN

オレたちのプロレスと格闘技の考察 338,404 lượt xem 3 years ago
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2003年、長州力はWJの末期、地方遠征では2900円の安いホテルに泊まり、食事もハンバーガーで済ませていた。天下の長州が「おい石井、モスバーガーってうまいな」「やっぱりスプライトが一番だ」などと頬を緩ませていたという。
東広島で開催された大会には、観客が40人ほどしかいなかった。
会場を見渡した長州は「俺、こんなところで試合しなきゃいけないのか」と寂しそうにポツリとつぶやいた……。いつも殺気を身にまとっていたはずの長州が、その時にはもう見る影もなかった。

2002年5月、新日本プロレスの現場監督を務めていた長州は新日本を退社。企画宣伝部長の永島勝司らとともに新団体 「WJプロレス(ファイティング·オブ·ワールド·ジャパン)」を立ち上げた。
北海道の実業家、福田氏を社長に、その資金も潤沢とされたWJ。2003年3月1日の旗揚げ戦がおこなわれる会場も、それらしく、横浜アリーナと決まった。

アントニオ猪木との確執により、新日本プロレスを追われた長州力と、参謀の永島勝司の2人が、WJで夢見たことは、アントニオ猪木に対する復讐でもあった。

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