0:48茶の湯 50:59たいこ腹 1:12:43つる 1:27:14青菜 1:52:03エンドトーク
「茶の湯」
原話は、1806年(文化3年)に出版された笑話本『江戸嬉笑』の一編「茶菓子」。このほか、講談の演目『関ヶ原合戦記』のうちの一段。東京では、茶道具の正式名称を知らない隠居が滑稽な名前を付けて呼ぶ演じ方をとる。「福島正則の荒茶の湯(上方では「荒大名の茶の湯」とも)」が下敷きとされる。なお「荒大名の茶の湯」は、同じ演題で上方落語に移植されて『茶の湯』とは別に演じられている
十代目 柳家 小三治
「まくらの小三治」と呼ばれるほど、まくらに力を入れており小三治のまくらを聴きに寄席に足を運ぶ常連もいたという。中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定され東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われ四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽に並び本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し大看板となった落語家のひとりである
「たいこ腹」
伊勢屋の道楽息子・孝太郎。『料簡を入れ替えて』善行に励もうと思い、鍼医の元に弟子入りして修業を始めた。練習ばかりでいると誰かに試してみたくなってくる。孝太郎も今すぐにでも実験をしてみたくなってきて猫に鍼を刺そうとして失敗。そこで、鍼を出しても騒がない人間…幇間の一八を実験台にすることを思いつくが・・・
八代目 橘家 圓蔵
1960年代から1980年代にかけて「ヨイショの圓鏡」の異名で落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。頭の回転の速さからなぞかけを得意としテレビやラジオなどの放送番組で人気を博す。得意のなぞかけから自宅の表札の裏に「そのココロは?」と書いてあるとも噂された。また頭の回転を活かした頓知も発揮し大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。強度の近視のため黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていたがこれは従来の寄席演芸のタブーを破るものでトレードマークになった。
「つる」
元は「絵根問」という噺の最後の部分だったが、四代目桂米團治が独立させてまとめたとされる。のちにガリ版印刷の『桂米團治口述 上方落語台本』に記し若手落語家の稽古本となった。前座噺として扱われることが多い。江戸落語では桂歌丸の口演が有名。物知りから教わった話を愚か者がマネして失敗する典型の噺である
桂歌丸
今輔門下から兄弟子4代目桂米丸門下へ移籍したのは芸術協会で勃発した香盤問題や今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発して破門状態となり一時落語からはなれていたが三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで米丸門下として落語界に復帰した。「笑点」の初期メンバーで小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが「あたしは落語を怠けている」と痛感し落語をちゃんとやることにしたという。歌舞伎は仕草や立振舞などを見て落語に活きるからと、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく観に行っていた。「歌丸」の名は師匠の四代目桂米丸が考案した名で歌丸は当代が初代である。
「青菜」
夏のある暑い午後。裕福な隠居の家の仕事中に隠居から「植木屋さん。精が出ますな」と労をねぎらわれ、「冷えた柳蔭をご馳走しよう」と座敷に誘われる。隠居はさらに酒肴として鯉の洗いも出し植木屋はいい気分で舌鼓を打つ「青菜は好きかね」と隠居は手を叩いて「奥や」と台所の妻に青菜を出すように頼むと妻は「鞍馬から牛若丸が出でまして名も九郎判官」すると隠居は「ああ、義経にしておこう」と・・・原話は安永7年版『当世話』の一遍(無題)。東大落語会によれば昔は別題として弁慶で演じられたこともあったという。元は上方落語で三代目柳家小さんが江戸落語へ移植した。
五代目 柳家 小さん
滑稽噺(こっけいばなし)をもっぱら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で、1960年代には落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸は有名であり、日本一であるとの声が多い。本人も蕎麦を実際に食する際は、職業柄周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたらしく、最晩年になってから、「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。位階は従五位。
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