2025年2月2日(日)
【旧約聖書】
イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。民9:18(協)
【新約聖書】
信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行先を知らずに出て行きました。ヘブ11:8(協)
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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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あるお寺のご住職が面白いことをおっしゃっていました。「修行道場にインフォームド・コンセントはない」。「インフォームド・コンセント」とは、主に病院で聞く言葉ですが、治療を受ける際に、医師から十分な説明を受け、患者はそれに納得し、同意した上で治療を受けることです。しかし修行道場はそれが一切ないと言います。確かに修行僧を指導する師家(しけ)が修行僧に対して、「皆さん、今からこれこれの修行をします。これをすれば、このような能力を身につけることができます。よろしいですか」、そんな説明をするはずがありません。「やれ」の一言で十分であり、修行僧は「その修行については納得できませんので、いたしません」など言えるはずがありません。言われたらやるだけです。それが修行です。今、私は大学の来年度のシラバスの執筆に追われています。シラバスには「授業目的」や「到達目標」、授業計画、評価方法を明記するよう、事務室から厳しく言われています。これも一種のインフォームド・コンセントです。多くの時間を割いて書いていますが、ほとんどの学生はシラバスを読んでいません。
信仰の道も、インフォームド・コンセントはありません。旧約聖書族長物語の「アブラハムの召命」において、神さまはアブラハムに対して「行きなさい、わたしの示す土地へ」とおっしゃって、具体的には行き先を明示されませんでした。そのことを本日与えられたヘブライ人への手紙では、このように書いています。「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行先を知らずに出て行きました。」この「行き先を知らずに」出ていく。どこに行くのか、到達目標は分からないけれども、神さまに信頼して出ていく。これが信仰です。これに対して、神さまに「どこに行くのですか」、「そこに行って、わたしの人生はどのようになるのでしょう」と問うことなどはありません。神さまが「行きなさい」と言えば、「はい」という、それが信仰です。その意味で、信仰の道を歩むことは、修行道場と似ています。
申命記にこのように書かれていました。「イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。」イスラエルの民は、ただ神さまの命令に従って、荒れ野を進み、様々なトラブルに遭いながらも、約束の地へと最終的には辿り着くことができました。考えてみれば、私たちの人生においてインフォームド・コンセントがあることの方が珍しいはずです。ほとんどのことは予告なしにやってきます。そのとき、信仰の道を歩んでいる者は、慌てず、騒がず、それを受け止める心の強さを持っているのです。信仰を貫くことは平たんでなだらかな道を快適に歩むことではありません。荒れ野をはだしで耐えながら歩くことです。しかしその先にはイスラエルの民が約束の地に導かれたように、永遠の命への導かれることになるのです。
日本キリスト教団六ツ川教会牧師 桐藤 薫