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日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/2/8)

日本キリスト教団六ツ川教会 38 lượt xem 5 days ago
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2025年2月8日(土)

【旧約聖書】
恵みと憐れみに富む主は、御自身の驚くべき数々の御業について記憶に留められた。詩111:4(ド)

【新約聖書】
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。Iコリ10:16(協)

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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。

釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。

使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。

*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。

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 主日礼拝では説教、讃美歌、祈りの言葉が中心となりますが、聖餐式のあるときは、礼拝の雰囲気がガラッと変わります。あるとき、礼拝に出席されている方か、聖餐の行われる礼拝のとき、「今日の礼拝は宗教色濃いめですね」と言っていました。とても面白い表現だと思います。確かに、パンを掲げて「これは私の体である」と言ったり、杯をあげて「これは私の血である」と言ったりしますので、キリスト教のことをあまり知らなければ、「なんだこれは」と思うのは当然でしょう。もし説教で、牧師が手を上に挙げながら、頭を振って、訳の分からないことを叫んでいたとしたら、いわゆる「異言」というものですが、「宗教色濃いめ」と移るでしょう。しかし六ツ川教会の説教でそうならないのは、クリスチャンでなくても多くの人が理屈で理解できる範囲に落とし込んでいるからです。ところが聖餐式となると、そうはいきません。パンを掲げて、杯を掲げて、奇妙なことを言っています。この途端に理屈で理解できる範囲の外に飛び出してしまいます。そこが「宗教色濃いめ」という表現に現れているように思います。人間の理解の範囲を超えると「宗教色」というのを感じるのかもしれません。

 使徒パウロはこのように記しています。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。」「血の交わり」というのは、馴染みのない表現だと思いますが、血というのは当時においては特別な意味がありました。出エジプトでの過越の出来事のとき、神さまがエジプトの地のすべての初子を打つということをなさいます。「打つ」とは、「殺害する」ということです。恐ろしいことです。しかし、イスラエルの民は神さまが命じられたとおり、生贄とした小羊の血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ることで、神さまはその家を過ぎ越す、つまりその家の初子を殺害しなかったのです。まさに小羊の犠牲の血によって、イスラエルの初子たちは守られたのです。
パンがキリストの体であるのは、それによってイエスが私たちのために犠牲になられたことを思い起こすためです。私たちは日々、牛、豚、鳥の肉を食べていますが、これらの動物の犠牲によって私たちの体は生かされています。キリストの体であるパンを食べるというのはそれと同じことで、このパンを通して、イエスの犠牲によって、私たちが生かされていることを思い起こしているのです。ぶどう酒がキリストの血であるのは、イエスの流された血によって、本来は罪人として打たれて当然、死にいたって当然の私たちを、神さまが過ぎ越す、過ぎ越すどころか神さまが救われる約束を思い起こしています。このように聖餐式とは、神さまの犠牲と救いの約束を思い起こし、追体験することです。そもそも神さまの救いは人間の理解を超えたことですから、聖餐式も一般的な常識を超えたことをしています。それを見て「宗教色濃いめ」と見えるのは、当然かもしれません。

 旧約の詩人はこのように歌っています。「恵みと憐れみに富む主は、御自身の驚くべき数々の御業について記憶に留められた。」神さまの記憶に留められたものの一つが、この聖餐です。聖餐に神さまの御業の記憶を見ることができたとき、この宗教色濃いめの儀式に、私たちの救いを見ることができるのです。

日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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